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調査の契機と調査概要

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前項で記述されたとおり、豊前国府の所在地にかかる諸説のうち、豊津町大字国作・惣社説は最有力候補地として注目されていた。昭和五十一年になって推定地北部の国作字幸木地区で焼却場建設が計画され、緊急調査が実施された。調査の結果、須恵器・土師器のほか、緑釉陶器・青磁・白磁、円面硯、瓦・碁石など官衙的な遺物が出土し、国府の存在の可能性が非常に強くなった。
 昭和五十年代の後半になると、町内の各地区で圃場整備事業が進められ、国府周辺地域もその対象地となることが予想された。このため、事前に国府の範囲と構造を確認するため、昭和五十九年度から六十一年度に第一次から第三次のトレンチ調査が実施された。五十九年度は国土調査法に基づく座標を設定したのち、北半地域のやや縁辺部を対象に五か所のトレンチを設定した。翌六十年度では中央部付近に五か所と、官道の存在が予想された徳政地区に三か所のトレンチを設け、六十一年度には南半地域の国作集落付近で七か所のトレンチを設定した(第7図)。この三か年の調査によって、国府関連の遺構は主に「(惣社)八幡宮の北側の字宮ノ下、光り、御所、金築、幸木(こうのぎ・さやぎ)を中心とした地域に遺存している」と推測された。また、遺構のなかでは字宮ノ下で検出された南北溝が九世紀末ないし十世紀前半代のものとして注目され、遺物でも各種の施釉陶磁器とともに瓦や硯(すずり)の出土から、瓦葺き建物からなる官衙(かんが)の存在が確実となった。
 その後昭和六十三年度になると、惣社地区で圃場整備が実施されることになり、その事前調査として惣社八幡宮北側の低丘陵上で第四次の全面発掘調査が実施された。調査区は東西幅約四〇~八〇メートル、南北長さ約二六〇メートルで、面積約一万四〇〇〇平方メートルの広範囲にわたるものであった(第8図)。確認された主な遺構は、弥生時代の竪穴住居跡約一〇軒・貯蔵穴約二〇基とともに、七世紀から八世紀代の竪穴住居跡六五軒、七世紀から十三世紀の掘立柱建物跡約一六〇棟・井戸約二〇基などである。調査の結果、この地域は国府が建設される直前の古墳時代終末期から奈良時代初期にかけて約一〇〇年間にわたって大規模な集落が営まれ、奈良時代のある時期から国府の市街地となり、その後鎌倉時代初期まで生活の場となっていたことが判明した。また、掘立柱建物跡のなかには官人層の住居と考えられる廂(ひさし)を持つ建物や、大形の倉庫なども確認された。なお、政庁の所在地については、水路を隔てた東側の低丘陵上が有力地と推定された。

第7図 豊前国府推定地調査区配置図


第8図 惣社地区全体図

 政庁の存在が有力視された国作字御所・宮ノ下地区の調査は、平成元年度(第五次)から六年度(第九次)まで継続して行われた。調査方法は基本的に幅一〇または一五メートルのトレンチを東西または南北方向に設定して実施された(第11図)。第五次調査では、政庁推定地東部で、幅約六・〇メートル、長さ約三〇・二メートルに及ぶ南北に長大な掘立柱建物が発見され、政庁の東脇殿(わきでん)と推定された。また、北部中央付近で東西方向の大溝が確認され、後に政庁の北辺を区画する施設と考えられた。第六次調査では第二次調査で検出された南北溝の延長線上で、平行する二条の溝が確認され、政庁東辺を区画する築地塀(ついじべい)の両側の雨落ち溝と判断された。また、政庁南部の中央付近で総柱の掘立柱建物跡が検出され、門の可能性も指摘された。更に、政庁の東側の調査区でも九世紀から十世紀代の掘立柱建物跡や溝が多数分布することが判明した。第七次調査では東辺の築地塀の内側の溝が西方に曲がるコーナー部が検出され、政庁の南辺が確認された。また、第五次調査で検出されていた東辺内側に平行する南北棟の掘立柱建物が、更に南方に延び築地塀とほぼ同時期の政庁の東脇殿と推定された。第八次調査では正殿(せいでん)推定地付近にトレンチを設定したが、削平のため目的の遺構は検出されなかった。第九次調査では政庁推定地の南西部で、八世紀後半前後の掘立柱建物跡が確認されたが、目的とした西脇殿は発見されなかった。ただし、政庁南西部に残っていた一メートルほどの高まりで、十世紀後半ごろの西辺築地塀の雨落ち溝が検出された。