ビューア該当ページ

惣社地区の調査

418 ~ 422 / 1391ページ
第四次調査の惣社地区で検出された奈良・平安時代の遺構は掘立柱建物跡約一四〇棟・井戸約二〇基・溝約一〇条がある(第9図参照)。掘立柱建物跡は柱穴が円形・隅丸方形・方形のものがあり、総じて径二〇~六〇センチメートル程度のやや小形のものには円形が多く、四〇~一〇〇センチメートル程度のやや大形のものには隅丸方形や方形が多い。ただし、柱痕跡は全体的に小さく最大のものでも径三五センチメートル程度である。また、九・十世紀には床面積の広い建物がみられる。さらに、建物の形式では部分的に廂を持つ建物が八棟、倉庫と考えられる総柱の建物のうち方二間を上回る建物が八棟ある。
 SB4021は、調査区中央部付近にある東西棟の掘立柱建物跡である(第10図)。構造は桁行六間・梁間二間の身舎(もや)部の南北両面に廂が付く。柱穴は基本的に隅丸方形の平面形をなし、一辺が四〇~七〇センチメートルである。建物全体の規模は、長さ一〇・八メートル、幅七・六メートルで、床面積は約八二平方メートルである。

第9図 惣社地区全景


第10図 惣社地区掘立柱建物跡実測図

 SB4005は、調査区のやや南部に位置する東西棟の建物跡である。建物の構造は桁行五間、梁間三間の総柱建物跡で、長さ一一・〇メートル、幅七・四メートルの高床倉庫と考えられる。柱穴は平面形が七〇センチメートル程度の隅丸方形をなす。床面積は約八一平方メートルで、国府内の倉庫では最大の規模である。
 溝は東西方向に走るものが多く検出された。SD4003とSD4004は調査区のやや北部に位置し、溝の中軸で一二メートルの間隔をおいて東西方向に平行して走る。溝の幅は前者が一メートル前後、後者が二メートル前後である。国府内の主要道路に伴う側溝かと考えられる。時期的には八世紀後半ないし九世紀前半で、国府建設の比較的初期に属する。
 惣社地区の調査によって明らかとなった事柄や問題点は次のとおりである。
①国府の建設と終焉(しゅうえん)について
 豊前国府が建設された国作・惣社地区には、古墳時代終末の七世紀中ごろから竪穴住居跡と小形の高床倉庫とからなる大規模な一般集落が営まれていた(豊前国府Ⅰ期)。八世紀代の中ごろになると、この集落内の竪穴住居跡が急速に減少する。これとほぼ同時期に東側の国作字宮ノ下・御所地区で掘立柱建物跡や直角に曲がる溝などの官衙的な遺構が建設される(同Ⅱ期)。その後、九世紀後葉になると、国作の当該地区に整地をしたのち築地塀や脇殿・門に代表される明確な政庁が建設される(同Ⅲ期)。大形の建物で構成される政庁は、十二世紀前葉前後まで建て替えを繰り返しながら、ほぼ同じ場所に存続していたと考えられる(同Ⅳ期)。そして十二世紀中葉ごろには再び大規模な土木工事または災害を経験して、十三世紀前葉にかけて大溝で区画された居館的な施設へと移行する(同Ⅴ期)。つまり、豊前国府は八世紀中ごろに建設され、十二世紀前葉まで官衙的施設は存続したが、その後は在地豪族層の私的な施設へと移行したと推定される。
②掘立柱建物について
 惣社地区は国府の居住地域に相当するためか、確認された建物のうち床面積が一〇〇平方メートルを超えるような大形の建物はなく、床面積七〇平方メートル以上が八棟で、最大のSB4150でも九〇平方メートルにとどまる。ただし、その中にはSB4021に代表されるような廂を持つ官人層の住居と想定されるような建物や、SB4005のようなやや大形の倉庫も点在している。なお、政庁地区に比べ、惣社地区では瓦類の出土量が少なく、検出された掘立柱建物跡のうち屋根に瓦を使用したものはごく少なかったと想像される。
③国府市街地の復元
 当地区は全体的に旧地表の削平が著しく、浅い構築物である道路や柵列などの町割りの基本となる施設はあまり残っていない。しかし深い溝や建物の密集の度合いなどから市街地の復元を試みることは可能である。まず道路のうち東西方向のものは、SD4003とSD4004との空間が幅約一二メートルの豊前国府Ⅱ期の道路と考えられる。これを基本にして、芯々で七二メートルの間隔で北側と南側に建物が少ない部分があり、この部分にも東西方向の道路が走っていた可能性がある。次に南北道路では、調査区北部で南北方向に建物が希薄な部分が中央からやや西側に続いている。幅は先の東西道路の半分程度と想定される。当地区の中央部にはやや大形の建物が特に集中する一角があるが、この部分が市街地の一つの中心をなしていたと考えられる。なお、租などの税を保管した正倉(しょうそう)については、調査区南部に二×三間・三×三間の倉庫が三棟あるが、やや規模が小さく、数も少ないため該当しないであろう。現状では正倉の位置は不明である。
④豊前国府の範囲
 国府の市街地については、第Ⅲ期政庁の北辺大溝から北方約二一〇メートルの県道椎田・勝山線の調査地までは多数の遺構が分布するが、その北方約二〇メートルの幸木遺跡では明確な遺構が検出されていないことから、その北限は同政庁から約二二〇メートル前後と推測される。南限については、官道を一つの境界と考えるならば、北辺大溝から南方約四三〇メートルとなる。また西方は、同政庁の西辺築地塀推定線から約二五〇メートルの位置に比高差一〇メートル前後の低丘陵が南北に走る。この丘陵上には古墳も現存することから、奈良時代には未開地と想像され、この丘陵の東辺裾部までが有効に利用できる地形である。東辺については、遺構が検出された範囲は東辺築地塀から東方約四〇メートルまでで、その東側は比高差二メートル前後の段落ちとなっている。ただし、条里は東方約一六〇メートル以東からしか分布せず、そこまで国府の関連施設が広がっていた可能性は高い。以上のことから国府の範囲を復元すると、第Ⅲ期政庁の時期で南北の長さが約六五〇メートル、東西の幅が約四九〇メートルと推定される。