以上のように豊前国府は幸木遺跡の調査から二〇年、継続調査を開始してからも一一年の期間を費やして、ようやく政庁と市街地の一部が確認された。これにより昭和三十年代以来議論されてきた豊前国府の所在地説に、一応の結論を得たわけである。しかし、奈良時代初期の国府の位置については、なお豊津町国作・惣社地区以外の地に求められる可能性も残されている。また、当地区内でも古墳時代終末から奈良時代前半にかけての一般集落が、国府建設の際にどのように取り扱われたか。いわゆる国府域と市街地の復元の問題、Ⅱ・Ⅳ期の政庁の位置と構造の問題など残された課題は多い。
奈良時代に国府は六六の諸国に設置され、二島にも島府が置かれたわけであるが、現在その位置と政庁の構造などが確認されている国府は少ない。大宰府・多賀城を除くと、下野・伊勢・伊賀・近江・伯耆・肥前などがほぼ完全に解明されているが、因幡・出雲・周防・筑後など部分的な把握にとどまるか、所在地すら確認されていない国府が多い。そのなかで豊前国府は現在までに政庁や市街地など、部分的とはいえ発掘調査によってその内容が明らかになり、将来の地方官衙研究に一資料を提供することができた意義は大きい。