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大宰府の設置と内容

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大宰府は西海道全体を総管する行政府であり、外交・海辺防備などの機能も果たしていた。養老職員令によると大宰府には帥(そち)以下五〇人の官人が配置されていたことが分かり、職員令に記載のない雑員などを含めると延べ一〇〇〇人以上に達したと推定されている。
 大宰府の前身とされる那津官家(なのつのみやけ)は、近年の調査で福岡市博多区比恵遺跡に推定されている。この遺跡では、倉庫と考えられる七棟の掘立柱建物跡、九×二間の東西棟掘立柱建物跡と柵状遺構が確認され、官衙的建物配置をとることが注目されている。当遺跡は六世紀後半代に造営されるが、その後七世紀中ごろの白村江の海戦を契機に、外交機能を有した地方行政機関として、内陸部に大宰府が設置される。大宰府の名称が文献に最初に登場するのは、白村江海戦後の天智天皇十年(六七一)である。
 大宰府政庁は発掘調査によって七世紀後半に掘立柱建物群からなる主要建物が建設され、八世紀前半代に基壇を持つ礎石建物に変わり、十世紀半ばに藤原純友(すみとも)の乱で焼失した後再建されたことが判明している。その規模は、南北二一一メートル、東西一一〇・七メートルで、主要建物は五×二間の南門と三×二間の中門が中軸線上に建ち、東西両面に廂を持つ七×四間の脇殿が東西に各二棟並び、正殿は七×四間の四面廂建物、後殿は南北両面廂の七×三間の建物であることが確認されている。また、中門と正殿は回廊で結ばれ、南門・中門間と正殿・北門間は築地塀で囲まれていた(第21図)。

第21図 大宰府政庁(8世紀)

 大宰府は『続日本紀』神護景雲三年(七六九)十月の条に「此府(このふ)人物殷繁(いんぱん)、天下之一都会也」と自称するとおり、宮都を除くと古代では最大の都市を形成していた。その規模は約二キロメートル四方とされており、政庁を北辺中央部に置き、全体は平城京と同様に条坊制が施行されていた。
 大宰府の外交の窓口となる施設に鴻臚館(こうろかん)がある。鴻臚館は古代の迎賓館にあたり、奈良時代には「筑紫館(ちくしのたち)」と呼ばれていた。関連の遺構は福岡市中央区城内の平和台球場外野スタンド改築に伴う発掘調査で、掘立柱建物跡や基壇状遺構が検出され、中国産陶磁器のほかイスラム陶器・木簡などが出土している。