小郡遺跡は脊振山地から東方に延びる標高二〇メートル程度の低丘陵地帯の末端部で、東西約三〇〇メートル・南北約四〇〇メートルの台地に所在する。七世紀後半から八世紀後半にかけて、計画方位の異なる三時期の掘立柱建物群が発掘されている(第25図)。このうちⅡ期は七世紀末から八世紀初頭の時期で、政庁と考えられるコの字形に配置された長大な掘立柱建物跡群を中心に、塀を隔てて北東側には正倉と想定される三×四間の倉庫九棟が二列に並んでいる。また、政庁の北西側には館の可能性がある掘立柱建物群が存在する。八世紀後半代のⅢ期では、Ⅱ期の郡庁の位置に正殿・後殿・西脇殿からなる政庁が営まれ、その北側には築地によって囲まれた空間が広がる。また、政庁の西方にも同一方位をとる、館とみられる官衙が造られている。このように、小郡遺跡では政庁・正倉・付属官衙(館)などが集中して発見されている。
第25図 小郡遺跡時期別遺構配置図
(松村一良「西海道の官衙と集落」『新版古代の日本③九州・沖縄』より)
大ノ瀬下大坪遺跡は、豊前国府から宇佐八幡宮に向かう官道沿いの微高地に所在し、現在政庁部分がほぼ調査されている(第26・27図)。郡衙の主要施設は溝や柵列で囲まれた、一辺一五〇~一六〇メートルの外郭内に分布すると考えられる。政庁はこの外郭のほぼ中央に位置し、五五×六〇メートル方形に区画された柵列内にある。主要建物としては、この柵列の南東辺のほぼ中央部に四脚門があり、正面奥に四×七間で四面廂の正殿がある。正殿は当初約一〇×一七メートルの規模であるが、後に約一一×二〇メートルと大きく建て替えられている。脇殿は東側のみ検出され、当初二×七間(四×一七メートル)以上で、後に三×六間(約七×一五メートル)に建て替えられている。また、政庁の北側や門の南側に隣接して倉庫も検出されている。当遺跡は八世紀を中心とする時期と考えられている。今後、周辺部で正倉など関連遺構の調査が継続され、遺跡全体の保存が図られることが期待される。
第26図 新吉富村大ノ瀬下大坪遺跡遺構配置図
(新吉富村教育委員会提供)
第27図 新吉富村大ノ瀬下大坪遺跡政庁全景
(新吉富村教育委員会提供)
なお、久留米市道蔵遣跡では、八世紀後半から九世紀初頭の三×七間の東西棟掘立柱建物跡と三×四間の倉庫一棟が確認され、「三万少領」の墨書土器が出土し、筑後国三潴(みずま)郡衙跡の可能性が考えられている。