ビューア該当ページ

官道の実態

449 ~ 451 / 1391ページ
古代の道としては奈良盆地東部の山麓を走る「山の辺の道」がよく知られているが、奈良盆地の平野部にも等間隔をおいて南北に通る上ツ道・中ツ道・下ツ道の三本の直線道路があった。七道の官道についても、文献資料や地形図・航空写真などによってそのルートが解明されつつあり、発掘調査でその内容が更に具体的に検証されてきている。その結果、次のことなどが確認されている(木下良近年における古代官道の研究成果について『国史学』第一四五号 一九九一・一二・二〇)。
①計画的に測設された古代道を官道とすれば、これらは平地では直線的路線をとるが、小起伏地でも低地に盛り土し低い丘陵を切り通すなど、なお直線的に通ることが多い。
②古代官道は年代的に構造や道幅などに変化がみられるが、その本来の姿は平地では両側溝を備え、その幅は側溝間の芯々距離で六・九・一二メートルなどが多く、……いずれも丈(約三メートル)の倍数を示すものが多い。傾斜地では側溝を設けることなく、道幅も狭まると思われる。
③これらの古代道は、八世紀代には確実に使用されたが、その創設は七世紀代にさかのぼるものがある。
④古代官道の幹線となる駅路は、八世紀代には九~一二メートルの道幅を示すが、九世紀代になると路線を変更するか、同一路線をとる場合も道幅を六メートル程度に狭めていることが多い。一方、駅路の通過地とは思われないところに八世紀代の道幅約六メートルの道路もあって、これらは伝路にあたる可能性がある。
⑤路面は特に土・砂利・土器片などを入れて硬化面を形成することがある。
 ほかにも、「古代官道は条里の施行基準線となっていることが多く、その『道代』は条里方格の余剰帯として認められることがある」ことや、「古代官道は条里に限らず、国・郡・里(郷)の行政界の設定、国府・郡家・国分寺の設置など、古代的地域計画の基準線としても利用された」ことなどが指摘されている。
 古代官道の発掘事例は、現在では五〇か所を超えるが、駅家が発掘によって確認された例はごく少ない。兵庫県赤穂郡上郡町落地(おろち)遺跡では山陽道の播磨国野磨駅跡とみられる施設が調査されている(第30図)。ここでは幅九~一〇メートルの道路跡と、これに面して幅約三〇メートル、奥行き約二三メートルの柵列に囲まれた施設が確認された。その内部には入り口に八脚門、正面奥に四×二間の正殿、左右に二×五間の両脇殿という官衙的な建物配置を示す掘立柱建物群が検出されている。存続期間は七世紀中ごろから八世紀前半とされている。

第30図 兵庫県落地遺跡全体図