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大化以前の戸籍

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大化の改新以前では人民は各地の豪族の私的な支配の下に置かれていたが、大化二年(六四六)の詔によって人民は公民とされ、国―郡(評)―里という行政組織の下で中央集権国家体制のなかに組み込まれて、国家から直接に把握され支配を受けることになった。戸籍はそのための基本的な台帳であり、公民は「編戸の民」といわれていずれかの戸に編成されることになった。
 しかし『日本書紀』には、大化以前にも既に戸籍が編まれていたことをうかがわせる次のような記述もみられる。
  ・崇神(すじん)天皇十二年三月…「此の時に當(あた)りて、更に人民(おほみたから)を校(かむが)へて長幼(このかみおとと)の次第(ついで)、及び課役(おほせつかふこと)の先後(さきのち)を知らしむべし」
  ・顕宗(けんぞう)天皇元年五月……「狹狹城山君韓帒宿禰(ささきのやまのきみからふくろのすくね)、事、謀(はか)りて皇子(みこ)押磐(おしは)を殺しまつるに連(かか)りぬ。…天皇、加戮(ころ)さしめたまふに忍びずして、陵戸(みささぎのへ)に充(あ)て、兼ねて山を守らしむ。籍帳(へのふみた)を削(けづ)り除(す)てて、山部連(やまべのむらじ)に隷(つ)けたまふ…」
  ・欽明天皇元年八月……「…秦人(はだひと)・漢人(あやひと)等(ら)、諸蕃(となりのくに)の投(おのづから)化(まう)ける者(ひと)を召(め)し集(つど)へて、國(くに)・郡(こほり)に安置(はべらし)めて、戸籍(へのふみた)に編貫(つ)く…」
 ただ、これらの記述は律令時代になってから戸籍や計帳(けいちょう)の知識で修飾されたものではないかとされ、史実かどうかは疑わしいと考えられている。しかし、欽明天皇(五三九―五七一)のころから一部の屯倉では屯倉の農民(田部)について戸籍を作ることが行われていたらしい。