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秦氏の豊前国への進出

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秦氏が、豊前地方へその勢力を伸ばし、秦氏―某勝―秦部の組織を作り上げていたことが戸籍の残簡からもうかがい知ることができる。その秦氏がこの地方で勢力を拡大し始めたのはいつのころからであろうか。秦氏については秦の始皇帝(しこうてい)の後裔(こうえい)でその祖弓月君(ゆづきのきみ)が「己が国の人夫廿県」を率いて渡来したという伝承を持った豪族であるが、実際の渡来は五世紀末ごろではないかとされており、渡来の背景には当時の朝鮮半島での政治情勢とのかかわりがあった。秦氏の故地とされる新羅(しらぎ)は五世紀後半には北方の高句麗(こうくり)の集中した攻撃を受けており、このような戦火を避けて倭国へ渡来したのではなかろうかと考えられている。渡来後の定住地は山城国(やましろのくに)の京都盆地の葛野付近とされていて、優れた土木工事の技術によって京都盆地の開発を行うとともに朝廷の大蔵・内蔵など財務に関与して物資の集積や交易も行って勢力を蓄えていった。更に大和政権が五世紀末から六世紀にかけて関西以西を支配圏に入れると、西日本各地に居住していた新羅・伽耶(かや)系の渡来人を部民化していったと考えられている。特に磐井(いわい)の乱後の六世紀前半に屯倉が設置される際にはその掌管者(しょうかんしゃ)として北九州へも勢力を伸ばし、豊前国戸籍にもみられるように山国川西岸から以北の豊前地域へも進出したものと考えられる。豊前地方では七世紀後半から八世紀初頭にかけて仏教寺院の建立が始まり、特に前出の地域からはそれらの寺院の屋根に葺(ふ)かれた優れた新羅系瓦の出土もみられるが、このことは秦氏が新羅からの渡来系氏族であり、その部民化にあたって新羅・伽耶系の渡来人を組織したと考えられていることともよく符合している(第31図参照)。

第31図 畿内の周辺に分布する主な渡来氏族
(歴史読本入門シリーズ「渡来人は何をもたらしたか」人物往来社 1994より)