ビューア該当ページ

秦氏とその技術

462 ~ 464 / 1391ページ
秦氏はその本拠を置いた葛野に「葛野大堰」を造るなどして先進の土木技術で京都盆地の開発に力を注いだが、『日本書紀』雄略紀十五年条で「秦造酒(はだのみやつこさけ)が養蚕をし、絹を織り篋に盛って宮廷に貢納し、それが山のごとく朝廷に積まれた」という記述や同十六年条には「諸国に桑を植えて秦の民に養蚕・機織による調・庸に携わらせた」という記述などから秦氏=養蚕・機織の技術を保持していた氏族としてとらえられている。しかし上田正昭氏は調・庸などの用字には後の潤色もあり「養蚕・機織とは必ずしも秦氏は密接なつながりはないのであって、新羅に由来するハタに機織のハタをあてはめたところからこのような話ができあがったとみられないこともない」(『帰化人』古代国家の成立をめぐって、上田正昭著 中公新書)と述べ、また関晃氏も「ウズマサの話を除くと機織の民という根拠は完全になくなる。秦氏を機織技術の氏と決めてかかるわけにはいかない」(『帰化人』関晃著 日本歴史新書)としていて、慎重な取り扱いを提起している。
 次にそのほかの秦氏の技術として平野邦雄氏は、鋳造(ちゅうぞう)・木工をあげ「鋳造も秦氏と新羅人によって技術が伝習されたといわれる。…木工も秦氏には新羅系帰化人といわれる猪名部が属し、自らも多数の木工を輩出した」(『帰化人と古代国家』平野邦雄著 吉川弘文館)と述べている。また同氏は、大宝令施行以後の金属工人の研究から、雑工=鋳工(ちゅうこう)・銅工=秦氏系=新羅系技術とする考えを述べている。このことに関連して豊前国をみれば、古代における香春岳からの採銅があげられる。奈良時代に東大寺大仏の造営の際には豊前国の産出と考えられる「西海之銅」が使われており、また『延喜式(えんぎしき)』(主税、上、巻二十六)には鋳銭の年料として「豊前国の銅二千五百十六斤二分四令珠、鉛千四百斤…」とみえ、これは香春岳などからの産出と考えられていて、奈良・平安時代には盛んに銅・鉛が産出されていたことが分かる。『豊前国風土記(ぶぜんのくにふどき)』逸文(いつぶん)には
   田河の郡(こおり)、鹿春の郷(さと)、[郡の東北のかたにあり]。此の郷の中に河あり。年魚(あゆ)あり。其の源は郡の東北の杉坂山より出でて、すぐにま西を指して流れ下りて、真漏(まろ)川に湊(つど)い会えり。此の河の瀬清浄(きよ)し、因りて清河原の村と号(なづ)けき。今、鹿春の郷と謂うは訛(よこなま)れるなり。昔、新羅の国の神、自ら度(わた)り到来(きた)りて、此の河原に住みき、すなわち名づけて鹿春の神と曰う。又、郷の北に峰あり。頂に沼あり、[闊さ三十歩許あり。]黄楊(つげ)の樹生いたり。兼(また)、竜の骨あり。第二の峰には銅と竜の骨とあり。第三の峰には竜の骨あり。
 とあり、田河郡鹿春の郷(現香春町)に新羅神の到来したことや香春岳に銅の存在することが記述されている。新羅神は産銅神と考えられており、この神を奉斎する新羅人がこの地に渡来してきて、古代においては香春岳からの採銅にかかわっていたものと考えられ、また秦氏の部民としても組織されていたものであろう。
 また新羅神に関して、香春岳山麓の香春神社には息長大姫大目命(おきながおおひめおおめのみこと)、忍骨命(おしぼねのみこと)、豊比咩命(とよひめのみこと)の三神が祭られているが、『延喜式』巻十「神名帳」には田川郡辛国(からくに)息長大姫大目命神社とあり、『日本三代実録』には豊比咩命を辛国息長比咩神としていて「辛国」は「韓国」と同じ意味であり、これらの神々こそ『豊前風土記』逸文にいう渡来した「鹿春の神」を指すものであろう。
 次に鋳造関係についてみると、太宰府観世音寺の鐘楼にはその下縁底部に「上三毛・麻呂」の陰刻銘のある梵鐘(ぼんしょう)がある。この鐘は形状・法量をはじめ撞座(つきざ)まで極めてよく似た京都府妙心寺(みょうしんじ)の梵鐘銘から七世紀末の年代推定がなされているが、その刻銘が鋳工の出身地と名前を刻したものであれば、既出の大宝二年(七〇二)豊前国戸籍の上三毛郡の塔里・加目久也里の秦氏の部民を思い起こさせる。
 このように秦氏系の技術として灌漑土木に関するもの、養蚕・機織に関するもの、採銅・鋳造に関するものなどがみられる。古代の初期において大和政権の勢力拡大とともに豊前地方へも進出してきた秦氏は、渡来系の人々をまとめながら秦部の組織を形づくり、この地方の農業・養蚕・鉱業などに関して多方面にわたっての開発に携わったことが考えられる。