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班田収授の法

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律令政治の下で人々の生活と直接大きなかかわりを持ったのは班田収授の法であった。大化二年(六四六)の改新の詔で「其の一に曰く、昔在(むかし)の天皇等の立てたまへる子代(こしろ)の民・処処の屯倉、及び別(こと)には臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)・村首(むらのおびと)の所有(たも)てる部曲(かきべ)の民・処処の田荘(たどころ)を罷(や)めよ…」として天皇や豪族の私有民・私有地を収公して公地・公民制をとることとし、更に「其の三に曰く、初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造る。…」として戸籍・計帳を整えて班田収授の法を行う方針を出した。
 戸籍は公民を把握する基本的な台帳であり、更に口分田の班給・良賎身分の確定・姓の確定をする台帳であり六年ごとに作製されたが、計帳は戸主自らが作製する戸口の手実(戸の構成状況や各人の身体的特徴などを記したもの)を基礎に毎年作製されて、年々の戸口の変動が把握されるとともに租税徴収の台帳とするものであった。このような戸籍・計帳をもとに班田収授とそれに伴う徴税が行われることになるが、しかしこの制度は実際には持統三年(六八九)の『浄御原令』の施行によって成立したと考えられており、持統六年には畿内に班田使が派遣されているが、各国でも国司によって班田が行われたと推定されている。そしてこの令が基本となって、後の『大宝令』や『養老令』に引き継がれたとされる。
 『養老令』(養老二年=七一八=成立)の「田令」によって具体的な班田収授の内容をみると、六歳以上のすべての人民に土地(口分田)を与え(班給)、死亡すればそれを国に収公した。すなわち六歳になると良民の男子には二段(七二〇歩)、女子にはその三分の二(一段二〇歩=四八〇歩)、家人(けにん)や奴婢(ぬひ)には良民のそれぞれ三分の一(男子…二四〇歩、女子…一六〇歩)が戸籍に登録された本貫地(ほんかんち)で班給された。この場合、一戸がまとめて受田(じゅでん)し、家族で耕作した。
 この口分田については終身の耕作権が認められ、死亡すれば次の班給の年には収公(しゅうこう)された。売却・質入れは禁じられたが、国司に届け出をして普通は二〇パーセントの賃租料(ちんそりょう)を取って小作に出すことは許されていた。口分田の新たな受田資格者に対する班給と死亡者の口分田の収公は六年ごとに行われたが(六年一班)、墾田永年私財法の発布(天平十五年=七四三)などによって公地公民制が形骸化し、戸籍を作り始める年から二年後の班田が三年後となり、その後更に遅延して九世紀に入ってからは班田収授の法も崩壊していき、延喜(えんぎ)二年(九〇二)、三年以後は班田も消滅してしまった(第11表参照)。
第11表 班田実施一覧
造籍の間隔籍年間隔班年班田の間隔
6年持統天皇4年(690)2年持統天皇6年(692)6年
*持統天皇10年(696)2年*文武天皇2年(698)
6年6年
大宝2年(702)2年*慶雲元年(704)
6年6年
和銅元年(708)2年*和銅3年(710)
6年6年
和銅7年(714)2年*霊亀2年(716)
7年7年
養老5年(721)2年養老7年(723)
6年6年
神亀4年(727)2年天平元年(729)
6年6年
天平5年(733)2年*天平7年(735)
7年7年
天平12年(740)2年天平14年(742)
6年7年
天平18年(746)3年天平勝宝元年(749)
6年6年
天平勝宝4年(752)3年天平勝宝7年(755)
6年6年
天平宝字2年(758)3年天平宝字5年(761)
6年6年
*天平宝字8年(764)3年神護景雲元年(767)
6年6年
*宝亀元年(770)3年宝亀4年(773)
6年6年
*宝亀7年(776)3年*宝亀10年(779)
6年7年
延暦元年(782)4年延暦5年(786)
6年6年
延暦7年(788)4年延暦11年(792)
6年8年
*延暦13年(794)6年延暦19年(800)
6年
延暦19年(800)

(1)*を付した年は確実な史料がないので推定による
(2)延暦20年以降は班年が統一されていないので省略
(『国史大辞典』吉川弘文館より)