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(1)さまざまな負担

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 律令制のもとでは公民に対してさまざまな税が課せられたが、それは租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)と雑徭(ぞうよう)をはじめそれ以外の負担としては兵役・仕丁(しちょう)・出挙(すいこ)・義倉(ぎそう)などがあった。令によるそれぞれの負担の内容は次のようなものであった。
(租)水田の広さに応じてかけられた土地税で、税率は一段当たり稲二束(そく)二把(わ)(一〇把が一束)で慶雲三年(七〇六)に改正されて一束五把になったが、桝(ます)が変わっただけで内容は同じであり、籾(もみ)で納めた。一段の収穫量が五〇束(標準収穫量)とみた場合は負担率は三パーセントであった。ただし、半作以下の年には全免された(『養老令』賦役令 水旱条)。納入時期は九月中旬から十一月末日までで、国々の正倉に蓄えられた。その一部は米として中央の役所の食糧として送られたが、大部分は農民への公出挙(くすいこ)に運用され、地方財源となった。
(調)正丁・次丁・中男(ちゅうなん)(十七歳~二十歳)に課せられた物納租税の中心で、国の主要な財源として官人の給与(禄)など諸種の用途に充てられた。内容は絹・絁(あしぎぬ)・糸・綿・布などの繊維製品を中心に調雑物として鉄・鍬・塩・海産物など郷土の産物を納めさせた。また付加税としての調副物(ちょうのそわつもの)があり、工芸・染色品など多様な品目があった。調を布で納めるとすれば、正丁は二丈六尺(絹・絁なら八尺五寸)、次丁はその二分の一、中男は四分の一であった。調物は都からの距離に応じて近国は十月三十日、中国は十一月三十日、遠国は十二月三十日までに京納することとし、その輸送のための運脚(うんきゃく)は農民の負担であった。養老元年(七一七)には調副物と中男の調をやめて、中男作物(ちゅうなんさくもつ)の制度(中男に繊維製品や水産物などが課せられた)を作った。
(庸)京・畿内以外の者は正丁が年間一〇日、次丁が年間五日京に出て国の徭役(ようえき)(歳役)に従う義務があったが、実際にはこの歳役に就く代わりに納める物品税。米もあったが、一般的には布で正丁が布二丈六尺(およそ七・六メートル)、次丁がその半分、中男は免除された。慶雲三年(七〇六)二月にはこれが半減された。
(雑徭)成年男子に課せられた労役で、国司や郡司によって道路・堤防・池・溝などの建設や修築などに徴発された。日数は正丁は六〇日、次丁は三〇日、中男(成丁)は一五日であった。一時は日数が半減されたり再び元に戻されたりしたこともあるが、貞観(じょうがん)年間(八五九―七七)には半減された。また天長十年(八三三)以後は「舂(しょう)米運京」「調庸運脚」もこの日数に入れられた。
(兵役)『養老令』軍防令に「同戸之内、毎三丁取一丁」とあり、一戸内三丁のうち一丁が徴発された。食糧・武具(ほしい・塩・弓矢・太刀・砥石(といし)・工具など)は自弁。兵士の中から選抜指名された者が衛士(えじ)(都で宮城や役所の警備につく兵士、任期は一年)や防人(さきもり)(北九州の警備につく兵士、任期は三年)になった。一般兵士の場合、訓練日数は三六日であったが、国司は営繕土木の労役に使用できた。天平十一年(七三九)には疫病の流行・凶作によって徴兵が一時停止されたが、同十八年に復活した。また宝亀十一年(七八〇)には徴兵を富裕農民に切り替えたが、延暦十一年(七九二)には辺境の防備を除いて廃止された。
(出挙)春と夏に農民に稲を貸し付け、秋の収穫後に利稲(りとう)をつけて返済させるもので、本来は貧農の救済を目的としたものであり、貸し付けを受けるかどうかがその数量とともに自由な意思によるものであったが、その後財源確保のために天平十七年(七四五)には国が毎年出挙しなければならない額(論定稲)が決められて、貧富に関係なく強制的な貸し付けとなり、一種の租税的なものとなった。返済は本稲(元本)と五割(後に三割)の利息(利稲)をつけて行われた。利稲は国衙(こくが)運営の諸経費や中央政府に対する交易進上物の購入費などに充てられた。
(義倉)飢饉(ききん)などの際に窮民の救済に充てるために戸を単位として毎年一定量の粟(あわ)(稲、大・小麦、大・小豆でも代用できる)を出させて貯蔵しておく制度で、国衙の倉庫に蓄えられた。この納入は(田)租とともに行われたが、一位以下雑色以上の者に義務があり、陵戸・官戸・家人・公私婢には義務はなかった。戸は上々戸~下々戸まで九等戸に分けて上々戸は二斗~下々戸一斗と納入額が決められていた。貧窮の程度により、国司が一年間の納入額の範囲内で窮民一人に一石以下一斗以上を与えた。
(仕丁)郷(五〇戸)ごとに二人の割合で正丁が徴発された労役で、中央の役所の労働に使役された。任期は三年で生活費は郷土の負担としたが、後には仕丁を出した房戸の雑徭を免除してそれに充てさせ平安時代にはこの制度も形だけのものになり、日功(手当)銭・養物で代納するようになった。

古代の税