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(2) 厳しい農民の生活

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 このようなさまざまな負担が農民に課せられたが、全体的には厳しい生活が強いられた。まず租税の面からみると、口分田の班給に伴う田租は一般的には収穫量の三パーセント程度であり、それほど重い負担にはみえないが、国は班給の際にまず賃租(ちんそ)に出す上田を確保し、中・下田を班給するため収穫量は平年作でも令の規定の六三パーセント程度とする推定もあり、したがって実際の負担率はもっと高くなったはずである。次に、調・庸物を都(京)へ輸送する場合、運脚を出さない戸はその手当と食糧(功食)を出し合った。しかしその運送そのものも「京(きやう)に入(い)る人夫(にんぷ)、衣服(いふく)破弊(やぶ)れて、菜色(さいしき)猶(なお)多(おほ)し」(『続日本紀』霊亀(れいき)二年四月二十日条)とあり、帰郷の場合も「路(みち)遠(とほ)くして粮(かて)絶(た)ゆ」(『続日本紀』天平宝字元年十月六日条)で帰れず、「貢調脚夫路にあって留滞」「飢(うえ)と横斃(わうへい)する者多し」(『日本後紀』延暦二十四年四月四日条)とあり、都までの往復には大変な苦労を伴っていたことが分かる。なお九州の場合は調・庸物は大宰府に運ばれて府庫に入れられたのち調綿(ちょうめん)が京庫へ送られた。
 更に雑徭という成年男子に課せられた労働や兵士としての徴発は、それが一家の労働の中心となった男子だけに農作業などにかなりの支障を来していたことが考えられる。豊前国の場合は道路・堤防工事・池溝の掘削などに加えて豊前国府の整備(政庁・官舎の造営や倉庫・道路などの建設・修理)、国分寺の建立や瓦の焼成作業などにも従事させられたことであろう。
 このような負担の苦しみに加えて、天災・疫病・飢饉も容赦なく農民を襲い、「六道の諸国(くにぐに)、旱(ひでり)に遭(あ)ひて飢荒(きくわう)す、義倉(ぎそう)を開きて賑恤(しんじゅつ)す」(『続日本紀』養老三年九月二十四日条)、「夫(それ)、百姓(はくせい)、或は痼病(やまひ)に染沈(ぜむちむ)して、年(とし)を経(へ)て癒(い)えず、或は亦(また)重き病(やまひ)を得て昼夜(ひるよる)辛苦(しんく)す」(同 神亀三年六月五日条)などの記事もみえる。このような生活ぶりは山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」にもあるように「…竃(かまど)には火気(ほけ)吹き立てず、甑(こしき)には蜘蛛(くも)の巣(す)かきて、飯(いひ)炊(かし)く事も忘れて…」「伏廬(ふせいほ)の曲廬(まげいほ)の内に直土(ひたつち)に藁(わら)解(と)き敷(し)きて…」(『万葉集』巻五 八九二)と貧窮を極めていた様子もうかがえるが、大宰府司自ら「管内(くわんない)の百姓(はくせい)乏絶(ぼうぜつ)せる者(ひと)衆(おほ)し。優復(うぶく)(課役負担の免除)有(あ)らずは以(もち)て自ら贍(にぎは)ふ(自活)こと無(な)けむ」(『続日本紀』天平宝字三年三月二十四日条)と述べている。農民の中には辛苦に耐えかねて村から逃亡する者や浮浪する者も現れるようになり、富裕な農民などの開墾した土地に入り込んで農作業に従事する者も現れて、班田収授も揺らぐようになっていった。
 村では五戸ずつが保というまとまりを作り、保長のもとに治安と納税の責任が負わされた。当時は掘立柱の住居もみられたが、しかし一般的には地面を掘り下げて柱を立て、藁(わら)などで屋根を葺(ふ)き壁面に沿って竃(かまど)を作り付けた竪穴式住居であった。身近な調査例では八世紀後半の黒添赤木遺跡(現苅田町)があるが、おおよそ四~七人の家族が住めると思われる方形または長方形の住居五軒からなり、土師器や須恵器などの日用雑器と幾らかの鉄製品(鎌・刀子(とうす))・砥石が出土しており、家ごとの格差がほとんどみられないほぼ一郷戸(ごうこ)にあたるような小集落であった(第12表参照)。
第12表 黒添赤木遺跡住居跡
住居番号規模(メートル)主柱カマド出土品
36・6×5・74北辺中央土師器甕8、須恵器2、黒色土器(杯・碗)
5東西4・9×南北4・24北辺中央土師器…皿1、杯1、甕2、黒色土器碗1
6東西4×南北4、隅丸(すみまる)方形4北辺中央土師器…鉢1、甕5 須恵器…皿1、蓋1、碗4
黒色土器…杯1
7東西3・6×南北3・354北辺やや土師器…壺1、甕3
中央より
9東西3・45×南北34北辺中央土師器…杯5、甕2、鉢1、刀子切っ先1
須恵器…杯1、蓋1、把子1、砥石1

 このような人々の生業の中心は農耕であったと考えられているが、鉄製U字型の鋤先(すきさき)・鍬先(くわさき)の普及により乾田の開発がされていく一方では原始的な低湿地での農法や焼畑も盛んであったと考えられている。更に原始以来のトチ・ドングリ・クルミなどの植物採集も行われ、住居の周りの園地では麦・粟(あわ)・稗(ひえ)などの雑穀や蔬菜(そさい)類も栽培されたと推測される。そのころの農民の一般的な農事暦は次のようなものであったろうと思われる。
 ・二月…五穀豊饒の祭り(神社での共同飲食)
 ・二月下旬~三月初旬…播種(種籾の不足者は国から出挙を受ける)
 ・四月下旬~五月初旬…田植え、その後は除草・ヒエ抜きなどの農作業
 ・八月上旬…このころまでに調・庸物の製作
 ・九月…刈り入れ
 ・秋~冬…租・戸別の輸納、出挙本稲・利稲の返済
      調・庸物の京進(九州諸国は大宰府へ)、国司による雑徭の徴発