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(3) 税にみる豊前国の産物

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 律令制度の下で農民の負担した租税のうち調・庸は繊維製品を中心に調雑物・調副物としてさまざまな品目があり(『養老令』賦役令)、また中男作物の制度(養老元年=七一七=から)が作られてからも、その内容には多くの品目がみられるが、それらの物品はそれぞれの国の特有の産物が多いと思われる。豊前の国の場合には次のような品目がみられる(『延喜式』巻二十四 主計上による)。
  (調) 絹、綿紬(ワタノツムキ)、貲布(サヨミノヌノ)、糸、綿、烏賊(イカ)、雑魚楚割(クサクサノソハリ)
  (庸) 米(ヨネ)、綿
  (中男作物) 黄蘗皮(キハタノカワ)、黒葛(ツツラ)、煮乾年魚(ニホシノアユ)
        雑魚楚割(コツオノカワ)、鹿鮨(カノスシ)、猪鮨(イノスシ)
        鮨年魚(スシノアユ)、塩漬年魚(シオツケノアユ)
        胡麻油(コマアフラ)、荏油(エノアフラ)、海石榴油(ツハキアフラ)
        折薦(オリコモ)、防壁(タテコモ)、韓薦(カラコモ)
 これらの特産品の中でも特に豊前国の場合は綿(真綿のことで、絹綿または繭わたともいう)は際立った特産品らしい。「大宰府(だいさいふ)に仰(おほ)せて調(でう)の綿(わた)一十万屯(とん)を進(たてまつ)らしむ」(『続日本紀』天平元年九月三日条)とあり、更に「始(はじ)めて毎年(としごと)に大宰府の綿廿万屯を運(はこ)びて、京庫(きやうこ)に輸(いだ)す」(同 神護景雲三年三月二十七日条)とあって、奈良時代には毎年一〇万~二〇万トンの綿が京に送られた。後にその量が半減されて隔年の貢進になったり、一部絹や銭で代納されるようになったりしても原則的には平安中期までは綿であった。
 平城宮跡から西海道諸国の調綿の木簡が出土しているが、その中に次のような豊前国の木簡もみられる。
  豊前国仲津郡調短綿壹伯屯 四両 天平三年
  豊前国下毛郡調短綿壹伯屯 四両 養老□□
  豊前国宇佐郡調黒綿壹伯屯 四両屯 神亀四年
 これを見れば調綿は一〇〇トン(一トンは約二二・五グラムで、約二二・五キログラム)ずつ荷造りされ、荷札をつけて送られた。「大宰府所貢の調綿は、毎年三月から七月までの間、海路の静かな時に必ず進上せしめよ。今後永く恒例とせよ」(『類聚三代格』所載 神護景雲三年三月二十四日、左大臣宣)とあり、貢綿使(使一人、史生一人、郡司一〇人、郡司子弟一〇人)によって博多湾から瀬戸内海を経て海路で輸納された。奈良時代西海道(九州)での調・庸綿の総生産量は約一二万~二〇万トンとも推定されていて、当時の日本においても綿の主要な生産地であったが、豊前国においても綿は主要な生産物であったに違いない(第32図参照)。

第32図 『延喜式』にみる綿の上納国