最近各地域で水田の圃場整備が進められていて、広い区画の水田の造成で古くからの溝や畦畔(けいはん)が付け替えられ、かつての耕地の姿が一変してしまった。条里遺構の残存していた地域でも条里を無視したこの造成工事によって条里遺構の消滅が相次ぎ、かつての状況は古い地図や航空写真でしかうかがい知れない状態となりつつある。それは豊津町域においても例外ではなく、比較的残存状態のよかった祓川左岸の節丸地区や徳政・有久・惣社・国作地区の条里遺構も圃場整備の完了した現在では消滅してしまった。そのほかの京都・行橋平野の各地域でも次々と消滅して、わずかに残った遺構の消滅も間近いものと思われる。
古墳やそのほかの文化財に比べて条里遺構の保存は全体的に軽視されすぎてきたことが消滅を早めた原因であろう。この地方の条里の復元作業をはじめ古代の土地制度と集落の問題などの研究がほとんど進められないまま条里遺構が消滅しかけていることは、これからの郷土の古代史研究に取り返しのつかない事態になってしまった。