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律令国家と隼人(はやと)

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九州の南西部(現在の宮崎県・鹿児島県)に住む部族は古代においては隼人という名で呼ばれていたが、その居住する地域によって日向隼人・大隅隼人・阿多(あた)隼人・甑(こしき)隼人・多〓(たね)隼人などといわれ、狩猟・漁労を中心に農業を営んで独自の文化を形成していた。『日本書紀』には大和政権が列島内各勢力を統一する過程で、政権に従わない地方首長を土蜘蛛(つちくも)と呼んで征服していく様子が記述されているが、これらの地方においても同様であった。隼人が大和政権に服属していくのは、これらの地方の前方後円墳の分布や『日本書紀』の説話などから五世紀代と考えられている。しかし実際に支配下に入ったのは、律令による政治体制が確立していく天武・持統朝のころとみられている。そして『日本書紀』には、大隅・阿多の隼人が多数来朝して方物(くにつもの)(特産品)を献上し、朝庭(みかど)で相撲をした(天武十一年七月紀)、また大隅・阿多の隼人の魁帥(ひとごのかみ)が多くの己(おの)が衆(ともがら)を率いて天武の殯宮(もがりのみや)で誄(しのびことたてまつ)り(持統元年五月紀)、これによって三三七人が賞を賜った(同年七月)ことや筑紫大宰(つくしのおおみこともち)粟田真人(あはたのまひと)らが隼人一七四人を献じた(持統三年正月紀)などの記事が見える。
 そしてこのころ隼人にも近畿地方への移住政策がとられ、大隅隼人や阿多隼人の一部が京都・滋賀・奈良に分置されて畿内隼人と呼ばれた。畿内隼人は隼人司の統轄の下に隼人舞を教習されて大嘗祭(だいじょうさい)など宮廷の祭祀に歌舞を奏したり、油絹や竹笠(がさ)など手工業生産にもあたった。また犬を使って官庁の警備にあたる一族もいたらしいが、選ばれた番上隼人は天皇の警衛にあたり、今来(いまき)の隼人(新しく中央に出された者)は元日・即位・蕃客入朝の儀などの際には呪力を持つという犬のほえ声を発した。
 いっぽう在地の隼人については、六年相替の朝貢を行うことが義務づけられ、各集団が酋帥(郡司)に率いられて上京して方物を献じ、天皇の前で風俗歌舞を奏した。そのたび率いて来た酋帥層には授位が行われている。