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隼人の討伐と背景

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このように隼人が大和政権に服属し、その後律令体制の下で分断支配されていくなかで、八世紀前半代には次にあげるような乱を引き起こしている。
 ・文武四年(七〇〇)六月
   薩末の比売(ひめ)・久売(くめ)・波豆(はづ)・衣評督衣(えのこほりのかみえ)君県(あがた)、助督衣(すけえ)君弖自美(てじみ)、肝衝難波(きもつきのなには)が肥人(くまひと)どもを従え、武器をもって覓国使(くにまぎのつかひ)の刑部真木(おさかべのまき)らを脅迫する
   ※この二年前に文(ふみ)己寸博士ら八人が南国にくにを覓(もと)めてつかわされ、戎器(じゅうき)(武器)を給されている。
   ※この事件については、竺紫惣領(つくしのそうりょう)に勅(みことのり)して、法に基づいて処罰させている。
 ・大宝二年(七〇二)八月
   薩摩・多〓の隼人が反乱
   ※朝廷は兵を発して征討し、薩摩の隼人を討つ軍士に勲位を授けた。戸を調査して国司・嶋司を置き、また柵城を設けて戍(まもり)(兵士)を置いた。
 ・和銅六年(七一三)四月
   日向国の四郡(肝坏(きもつき)・贈於(そお)・大隈・姶〓(あいら))を割いて、大隅国を建てる。
   ※七月、征隼人の将軍・士卒(しそつ)のうち、一二八〇余人に勲位を授ける。(討伐はこのころまで続けられたらしい)
 ・養老四年(七二〇)二月
   大隅隼人が国守陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)を殺害
   ※朝廷は同年三月、中納言(ちゅうなごん)大伴宿禰旅人(すくねたびと)を征隼人持節大将軍(せいはやひとぢせちだいしょうぐん)とし、授刀助(たちはきのすけ)(授刀寮の役人)笠朝臣御室(かさのあそんみむろ)と民部少輔(みんぶしょうふ)巨勢朝臣真人(こせあそんまひと)を副将軍として、二年がかりで平定する。
    隼人の斬首(ざんしゅ)・捕虜合わせて一四〇〇人にものぼったという。
 このように相次いで隼人の乱の起こった主な原因は乱がほぼ造籍年(466ページ参照)の前年かその年に起きていることで、造籍や班田収授に対する反抗と考えられている。『続日本紀』の天平二年(七三〇)三月条に大宰府(だいさいふ)言(もう)さくとして次のような記事がある。
   「大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)の両国の百姓(はくせい)、国(くに)を建(た)ててより以来(このかた)、曾(かつ)て田(た)を班(あか)たず。その有(も)てる田(た)は悉(ことごと)く是(こ)れ墾田(こんでん)なり。相承(あひう)けて佃(たつく)ることを為(な)して、改(あらため)め動(うごか)すことを願(ねが)はず。若(も)し班授(はんじゅ)に従(したが)はば、恐(おそる)らくは喧(かしま)しく訴(うるた)ふること多(おほ)けむ」とまうす。是(ここ)に、旧(もと)に随(したが)ひて動(うごか)さず。各(おのおの)、自(みづか)ら佃(たつく)らしむ。
 これを見ると隼人の住む国々では田がすべて墾田の私有地であり、これを公地化して班田収授するという土地制度の中央集権化に強く反対している様子がうかがえる。この記事は養老四年(七二〇)の大隅隼人の大規模な反乱から一〇年も経過したこの時期になってさえ班田収授の実施できないことを示している。そして『類聚国史』一五九 延暦(えんりゃく)十九年(八〇〇)十二月に「大隅・薩摩の百姓の墾田を収め、便に口分を授」とあるようにこの時期まで土地制度の変革を待たねばならなかった。