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豊前国と隼人の乱

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隼人の乱に対して、九州の各国はもとより豊前国においてもいろいろなかかわりをもっている。大宝二年の豊前国の戸籍を見ると、仲津郡では戸主狭度勝泥麻呂(さどのすぐりはにまろ)の弟狭度勝與曽彌(よそみ)は勲十等を持っており、上毛郡では戸主塔勝岐彌(とうのすぐりきみ)は勲十一等を持っている。彼らはこの年の征隼人軍に加えられて、その軍功によりこのような勲位を授けられたのであろうと考えられている。更に和銅六年(七一三)七月には隼人を討つ将軍や士卒ら一二八〇余人に勲位を授けているが、この年の四月に大隅国を設置したことに関連した軍事行動があったのであろうか。このときの士卒の過半数は九州各国から徴発された者であったろうともいわれる。
 またその翌七年(七一四)には豊前国民二〇〇戸を隼人の地に移住させている。『続日本紀』には次のように記述している。
  隼人(はやひと)、昏荒野心(こんくわうやしむ)にして、憲法(のり)に習はず。因(よ)りて豊前国(とよくにのみちのくに)の民(たみ)二百戸を移して相勧(あいすす)め導(みちび)かしむ(三月十日条)
 隼人が道理に暗く愚かで法に従わないので、豊前国民を移住させて教導させるとしているが、当時の二〇〇戸は四郷(一郷五〇戸)にあたり、一郷戸平均約二五人として約五〇〇〇人が移住させられたことになる(458ページ参照)。豊前国八郡の中からどのようにして移住する戸を選んだかは不明であるが、京都・仲津両郡出身者も多数がその中に含まれていたに違いない。移住先が大隅国か薩摩国かは分かっていないが、『和名類聚抄』によれば大隅国桑原郡(くわばらぐん)に「豊国」郷があり、このときの移住者による郷ではないかと考えられている。
 次に養老四年(七二〇)の反乱は二年がかりで鎮定されるほど最も規模の大きなものであったが、征隼人軍の将軍の下に副将軍が二人任命されているので、軍防令の規定に従えば兵士は一万人以上であったと思われる。律令軍制では、軍団の最高指揮官は軍毅(ぐんき)(大毅・小毅・毅)で、地方豪族すなわち郡司層級から選ばれたようであるが、兵役により徴兵された兵士をよく掌握して、より有効的に使役するためには、彼らと兵士(農民出身者)との伝統的につながりの深い関係がこの場合でも重視されたことであろう。
 このように八世紀初頭の約二〇年の間に相次いだ隼人の乱があり、その鎮圧のために動員された兵士の多くは九州から徴発された者と考えられている。『続日本紀』に次のように記している。
  陸奥(みちのおく)・筑紫(つくし)の辺(とほ)き塞(き)の民、数(しばしば)烟塵(えんぢん)に遇(あ)ひて戎役(じゅうえき)に疚(や)み労(つか)れり。加以(しかのみならず)、父子(ふし)死亡(し)に、室家(いへ)離(はな)れ散(あか)る。言(ここ)に此(これ)を念(おも)ひて深く矜(あはれ)に懐(おも)ふ。当年(ことし)の調(でう)・庸(よう)を出(ゆる)さしむべし(養老五年六月十日条)
 九州各国の農民は度重なる出兵で国家も無視できないほどに疲弊していたことが分かる。