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宇佐宮放生会

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養老四年(七二〇)の征隼人軍に豊前守宇奴首男人(うなのおびとおひと)は加わったとされる。勅使が宇佐宮に戦勝祈願をした際に八幡神も遠征するという神託(しんたく)があり、御神体を乗せた御神輿は日向・大隅に進軍する。このときに宇佐宮の禰宜(ねぎ)辛島勝代豆米(からしますぐりよつめ)も神軍を率いて加わるが、神のあやしき威力で隼人をことごとく降伏させ、大御神は同七年(七二三)に帰ったという。神亀元年(七二四)大御神は「我れこの隼人等を多く殺却したむくいには、年別に二度放生会を奉仕せしむ」と神託して、天平十一年(七三九)八月十四日から全国の諸社にさきがけて毎年八月に放生会が行われることになったという。また社伝では隼人討伐の際にその首を持ち帰り、宇佐西方の松隈の凶士塚(隼人塚・凶首塚ともいう)に葬ったという。ところがその後になって農作物に貝虫の被害が続き、凶作で農民は困ったが、これは隼人の崇(たた)りであろうとして、年一度ニナガイ(蜷貝)を海に放流して隼人の霊を慰めたという。これが放生会の祭りの始まりで、戦乱その他で幾度かの変遷はあったが廃絶することなく続いてきたと伝えられる。
 放生会は次のように執り行われる。
・七月二十三日(旧暦)……勅使が田川郡採銅所(さいどうしょ)に参詣(けい)し、古宮八幡宮清祀殿(せいしでん)の荘厳を始める。八幡宮の宮柱(みやばしら)長光家の当主は潔斎(けっさい)に入る。
・七月三十日………………香春岳の山開きを行う。(翌日火明神が降る)
・八月一日…………………一之御殿の宝鏡が鋳造される。
            宇佐宮は「浜本立」で和間(わま)の浜(宇佐市)に行く。
・八月四日~七日ごろ……二之御殿、三之御殿の鋳造が終わると三殿の宝鏡は神宿殿に入る。
            宇佐では「屋形賦」と称して宇佐宮は和間の浜に出て、屋形に札を立てる。
            草場(くさば)(現行橋市草場)の豊日別(とよひわけ)社は宝鏡を迎えに採銅所へ行く。
・八月八日…………………宝鏡は豊日別社に着き、神宿する。
・八月九日…………………豊日別社では宝鏡神幸の行列の順序を整えて草場を出発し、この日徳政の若宮八幡宮(現豊津町徳政(とくせい))に神宿する。
・八月十日…………………若宮八幡宮に神宿
・八月十一日………………若宮八幡宮を出発
            宝鏡は祓川で祓(はらい)を受け、ヤハタ八幡宮・大富社・官幣社(海神社)へ。
・八月十二日………………大根川で神宿
・八月十三日………………凶士塚に着く。ここで宇佐宮の行列(宮司以下神官・社僧三百余人)と出会い、合同で塚の祭りを行ったあと、和間の浜の浮殿(行宮)へ向かう。
・八月十四日………………行列が浜の浮殿に着くと、海から古表(こひょう)船(古表八幡宮)・古要(こよう)船(古要神社)の「傀儡船(くぐつせん)」が入ってくる。こちらでは宇佐郡辛嶋郷別符の法鏡寺船(ほうきょうじせん)・虚空蔵寺船(こくぞうじせん)が出て、弥勒寺(みろくじ)社僧が放生陀羅尼経(だらにきょう)を読誦しながらニナガイ(蜷貝)を海に放流する。
・八月十五日………………神事法会が行われ、豊日別宮が宝鏡を宇佐宮に納める。
            宇佐宮神輿は神宮に帰る。
 放生会の内容をみると、祭祀のいろいろな要素(宝鏡奉納・傀儡舞・放生)が加わっている。中野幡能氏は「放生会はトヨ国とヤマト国の古来の重要な事件、いいかえるとトヨとヤマトの人々の忘れることのできない伝承をもとに表現儀礼に放生儀礼が結びついている。昔は『くろ刈り』をして供えたというので、『新嘗祭』が根本であったかもわかりません」(『放生会の記録』宇佐宮放生会保存会、昭和五十三年)と述べている。しかし、いずれにしても放生会が隼人征伐に関連して始まったという伝承は八世紀にさかのぼるという指摘は多くなされている。