奈良時代の中ごろになって、郷土や全九州の諸国を巻き込み、中央政府を驚かした事件が藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱である。広嗣が大宰府の府官の地位と権力を利用して、管内の軍団兵士だけでなく在地豪族の出身である郡司とともに国内兵まで徴発して政府軍と戦ったことは、乱の舞台の中心が豊前国であっただけに、この地方の人々にとっても極めて衝撃的な事件であったに違いない。
藤原広嗣は当時の中央政界で権威をふるっていた藤原一族の式家藤原宇合(うまかい)の嫡子であり、父宇合は大宰帥にもなった人物である。天平七年(七三五)から流行した痘瘡(とうそう)(天然痘)は二年後の天平九年になっても衰えをみせず、中央でも広嗣の伯叔父の房前(ふささき)・麻呂・武智麻呂(むちまろ)、父の宇合が相次いで病死したため、藤原氏の勢力は急速に衰えて、政界の勢力も大きく塗り替えられた。すなわち橘諸兄(たちばなのもろえ)が唐から帰国した吉備真備(きびのまきび)や僧玄昉(げんぼう)を味方に加えて政権を掌握してきた。広嗣は天平九年(七三七)には従五位に叙せられ、翌年には大和国司兼式部少輔に任ぜられたが、すぐに真備や玄昉と衝突して大宰少弐に任ぜられ、中央政界から左遷された。広嗣は天平十二年(七四〇)八月になって、数年来の不作・飢饉や疫病の流行という天災・異変は為政者の責任であるとして朝廷に上表文を送り、真備と玄昉の解任を要求した。しかし、九月三日には挙兵して背いたという知らせが朝廷に届いた。