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政府の対応と乱の様子

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聖武天皇はさっそくこの日に参議大野東人(あずまんど)を大将軍に任命し、東海・東山・山陰・山陽・南海の五道の兵士一万七〇〇〇人の討伐軍を編成して西下させた。
 その後の戦況について『続日本紀』を中心にまとめると次のような経過をたどっている(第35図参照)。
九月二十一日 大将軍大野東人が長門国豊浦郡少領額田部広麻呂(ぬかたべのひろまろ)に精兵四〇人を授けて関門海峡を渡らせる。
 〃二十二日 勅使佐伯常人(さえきのつねひと)・阿部虫麻呂(あべのむしまろ)を隼人二四人と軍士四〇〇〇人の将として渡海させ、豊前国企救郡板櫃鎮(いたびつのちん)(兵営)を襲わせる。
 〃二十四日 企救郡板櫃鎮大長三田塩籠(みたのしおこ)は箭(や)二隻を背負って野裏に隠れる。
       豊前国京都郡鎮長大宰史生(だざいのししょう)小長谷常人(おはせのつねひと)と企救郡板櫃鎮小長凡河内田道(おおしこうちのたみち)は捕らえられて殺される。
       登美・板櫃・京都三処の営兵一七六八人は生け捕られる。
       広嗣は筑前遠賀郡の郡家に本営を定めて、国内の兵を徴発する。
 〃二十五日 豊前国京都郡大領楉田勢麻呂(しもとだのすぐまろ)(兵五〇〇騎)、仲津郡擬少領膳東人(かしわでのあずまひと)(兵八〇人)、下毛郡擬(ぎ)少領勇山伎美麻呂(いさやまのきみまろ)・築城郡擬少領佐伯豊石(さえきのとよいわ)(兵七〇人)が官軍に服する。
       板櫃鎮大長三田塩籠が豊前国の百姓豊国秋山などにより殺される。
       上毛郡擬大領紀宇麻呂(きのうまろ)などは賊徒の首四級を切る。
 〃二十九日 九州の諸国の官人・百姓に勅符を出し、広嗣が逆賊であることを知らせる。
       ※この間、広嗣は九州全土から集めた兵士を三軍に分けて、自らは大隅・薩摩・筑前・豊後などの軍五〇〇〇人を率いて鞍手(くらて)道より、弟の綱手は筑後・肥前などの軍五〇〇〇人ほどを率いて豊後国より、多胡古麻呂(たごのこまろ)は田河道よりそれぞれ板櫃鎮へ北上して官軍を包囲する計画であったが、広嗣が板櫃に着いたときにはあとの二軍が到着せず、そのまま官軍と対峙(たいじ)することになったという。
十月九日   板櫃川を挟んで河西に広嗣が隼人を先鋒(せんぽう)に一万騎ばかり、河東には勅使佐伯常人・安部虫麻呂の率いる軍士六〇〇〇人が対峙する。官軍の隼人が対岸の隼人に帰順を勧める。
       佐伯常人らは広嗣に勅使であることを知らせる。佐伯常人にその行動をなじられたが反論できず広嗣は馬に乗り立ち去る。
       その後、広嗣軍の中から隼人や兵士が官軍に帰順を始める。

第35図 広嗣の乱での広嗣軍の進路