広嗣の乱の際には当初広嗣方として登場するこの地方の郡司には次のような郡司と郡司候補者が見られる。
京都郡大領外従七位上 楉田勢麻呂
仲津郡擬少領無位 膳東人
築城郡擬少領外大初位上 佐伯豊石
下毛郡擬少領無位 勇山伎美麻呂
上毛郡擬大領 紀宇麻呂
このような郡司の選任は、基本的にはもともとその地方で勢力を扶植してきた在地の首長層の中から、しかもその郡内から選ばれるのが原則であったが、それは中央政府が一面ではこのような首長層の地域住民に対する支配を否定しながらも他面ではそのような力を利用して首長層と地域住民ともども国家の支配体制下に組み込もうとするものであった。広嗣は反乱に際して府官の持つ強い権力を行使して郡司を味方に引き付け、しかも郡司の在地性と住民と強い紐帯(ちゅうたい)で結ばれた関係をここでも利用して兵員を徴発させたものといえる。これは九州各国においても同様であったと思われる。しかし政府側が広嗣の逆賊であることを宣伝し、先の郡司たちが官軍へ帰順した際にはまた配下の騎・兵ごと帰順していて、ここにも郡司と兵士の伝統的な関係(国造軍的な)がみられる。