反乱のあった当時には、既に口分田の不足など土地制度の面でも律令政治の矛盾が露呈し始めており、また農民に対する税の過重な負担は、政治に対する不満を強く内包させていたことも事実である。したがって、単に上からの力関係だけで郡司や農民がこの乱に駆り出されたとするのは当たらず、広嗣に対する根強い支持のあったことも事実であろう。それは広嗣の死後に怨霊(おんりょう)思想が広まったり、各地に広嗣を祭る神社である唐津市の鏡神社、北九州市八幡東区の荒生田神社などがあることにもみられる。近くでは犀川町大字大坂字宮山の飯嶽(いいたけ)神社に伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)とともに広嗣が神霊として祭られている。
村誌には次のような伝承が記されている。要約すると、「広嗣が大宰府の役人として管内を視察した際、豊前国に来て飯岳の南峯を越える時に国状を見ようと嶺上で眼下をみているとおなかをすかされたので、里の農民が山を下って飯を用意してすすめたところ、その早さに感激してこの山を飯岳と称えよといわれた。……東に下ったところで、また一家が迎えて飯湯をさしあげた。その味がよく、気力がたちまち清朗となったのでおかわりをされた(これが今に伝わる三杯湯の祭りの起源である)。山上と山下の湯飯が急いで用意されたので里人の心がけのよいことによるとして、多くの穀物を賜わり郷里の税を長く減免された。……(反乱のため刑により)逝去されたが、広嗣の霊が火のように上空にあらわれた時、土地の人々はこれを仰ぎ見て恐れ驚いてその霊を祀った。同じ年の冬には広嗣の神霊が火の王になって山上に飛来して里の古老に『自分は以前に(里人からうけた)心づかいを思いおこして、永く里人たちを護るであろう』と。人々はますます感激して広嗣の霊を祀った」とある。後に広嗣の乱にことよせて作られた説話とも思われるが、豊前国の人々の広嗣に対する熱い思い入れが感じられる伝承である。