大化の改新後、七世紀の後半になって国は積極的な仏教政策をとり、諸国への使者の派遣、「金光明経(こんこうみょうきょう)」の送置などを行って護国経(ごこくきょう)の講読をさせている。それは教義に基づいて国家の平安を祈願する鎮護国家の考えに基づくものであるが、このような仏教政策に呼応する形で、七世紀後半には豊前地方にも有力な在地豪族による寺院の建立が進められたことは前出のとおりである。
更に天平九年(七三七)になって丈六の釈迦(しゃか)像を造立させたり、天平十二年(七四〇)に七重塔の建立や写経を命じたことなどは、国分寺建立に向けての一連の動きとしてとらえられているが、聖武天皇の天平十三年(七四一)になって諸国に国分二寺建立の詔が下された。
大化元年(六四五)から国分寺建立の詔勅が出されるまでの動きを年次を追ってみれば、次のようになっている。
大化元年(六四五) 仏法興隆の詔を下し、福亮(ふくりょう)・恵雲(えうん)・僧(そう)旻(みん)ら一〇人を任命して僧尼の指導にあたらせ、寺院の管理のため、寺司(てらのつかさ)・寺主(てらしゅ)・法頭(ほふづ)を置く。
天武五年(六七六) 諸国に使いを派し、金光明経・仁王経(にんのうきょう)を説かせる。
天武九年(六八〇) 初めて金光明経を宮中・諸寺で説かせる。
天武十四年(六八五) 家ごとに仏舎を作り、仏像・経をおいて礼拝供養させる。
持統七年(六九三) 諸国に仁王経を説かせる。
持統八年(六九四) 金光明経を諸国に送り、毎年、正月上弦の日に読ませる。
大宝二年(七〇二) 諸国の国師(こくし)を任ずる。
神亀二年(七二五) 国家平安のため、諸寺に金光明経または最勝王経(さいしょうおうきょう)を読ませる。
神亀五年(七二八) 国家平安のため、金光明経を一〇巻ずつ諸国に頒布する。
天平九年(七三七) 国ごとに釈迦三尊像を造らせ、大般若経(だいはんにゃきょう)を書写させる。
天平十二年(七四〇) 国ごとに法華経(ほっけきょう)を書写、七重塔を建立させる。
広嗣の乱により、国別に観音像一体を造らせ、観音経を写させる。
天平十三年(七四一) 諸国に国分寺・国分尼寺建立の詔を下す。金光明四天王護国之寺・法華滅罪之寺と称し、七重塔一基、金光明最勝王経・法華経各一部・宸筆金字最勝王経を置く。
(『日本文化史年表』 岩波書店 一九九〇から抜粋)