国分寺は僧寺と尼寺の二院制をとるが、この寺院建立も仏教の教義を広めるというより、経典の読誦などによって、その呪術により国家の平安と安泰を図ろうとするものであった。
このことは詔勅の中の「国(くに)泰(やす)く人(ひと)楽(たの)しび、災(わざはひ)除(のぞこ)り福(さきはひ)至(いた)りき」によく表現されている。しかし、直接の契機となったのは、七三〇年代から頻発する天然痘の流行・飢餓などによる災禍や藤原広嗣の乱(天平十二=七四〇)などの世情・政情不安を除くことにあったといわれている。加えて華厳教学の説いている蓮華蔵世界をこの世に作りだすのが理想と考えたことにもよるとされている。したがって、各国の国分寺の釈迦の仏国土を包み込む形で、奈良には廬舎那仏の造営が進められた。