このような寺域と伽藍を持つ国分寺は、僧寺には金光明四天王護国之寺として僧二〇人を、尼寺には法華滅罪之寺として尼一〇人を置いたが、このような寺の建立や維持・管理の費用として詔の中で、僧寺には封五〇戸・水田一〇町、尼寺には水田一〇町が施入された。また天平十六年(七四四)には国別に正税四万束を割いて僧・尼寺にそれぞれ二万束入れ、毎年出挙してその利息で「永く寺を造る用にあてよ」と詔された。更に天平十九年(七四七)には僧寺に九〇町、尼寺には四〇町の水田が追加施入された。そして天平勝宝元年(七四九)には僧寺一〇〇〇町、尼寺四〇〇町の墾田地の限度も定められた。
このように国家の手厚い保護の下に造営は推し進められたが、土地の選定・技術者(工人)の確保・資材の調達など大変な事業になった。造営の責任は国司に課されていた。しかし在地豪族の出身者が多い郡司たちの協力がなければでき得ない事業でもあった。そして造営は必ずしも順調ではなかったらしく、天平十九年の詔では国司の怠慢を戒めており、また郡司には三年以内に塔・金堂・僧房を造り終えれば、子孫に至るまで永代郡司に任ずるとして造営を促している。