豊前国分寺は旧仲津郡北部(現豊津町国分)に建立される。ここは錦原台地が浸食されて幾つもの舌状台地を作る東端の台地で、南から北へ緩やかに傾斜する低台地の先端部にあたる。寺域の北方約五〇〇メートルのところには大宰官道が東西に走り、そこはまた豊前国府域の南端近くにあたる。国分寺の建立もこの豊前国府との関連も考慮されて、詔にいう「好き処」として選地されたものであろう。
『続日本紀』には天平十八年(七四六)と十九年に豊前国司の「守」として従五位下大伴宿禰百世(ももよ)の名が見えるが、この時期既に国分寺の建立も始められていたのではなかろうか。完成の時期についても記録はないが、しかし天平勝宝八年(七五六)十二月十日、筑後・肥前・肥後・豊前・豊後など二六国の国分寺に対して「灌頂幡(くわんちょうのはた)一具、道場(だうじょう)幡四九首、緋綱(あけのつな)二条を頒(あか)ち下(くだ)して、以て周忌御斎(しゅうきおほみおがみ)の荘飾(かざり)に充(あ)てしむ。用(もち)い了(をは)らば、金光明寺(こむくわうみやうじ)に収(おさ)め置きて永(なが)く寺物(じもつ)とし、事(こと)に随(したが)ひて出(いだ)し用(もち)ゐしむ」(『続日本紀』巻十九)とあるように国から仏事荘厳具が下賜されているので、このころまでには豊前国分寺も完成していたのであろう。
豊前国分寺の瓦について、亀田修一氏は大宰府跡や豊前地方の古代寺院跡から出土した瓦の流通・流入関係を検討した結果、「大宰府や豊前各郡の寺々の造営者達(各郡の郡司クラスの人々や豪族達)がその支配下の瓦工達を国分寺へ送り、その瓦工たちが直接または間接的に瓦を造り、国分寺近くの船迫堂帰り窯(ふなさこどうがえりかま)や船迫宇土(うど)窯・徳政(とくせい)窯、それから未発見の瓦窯で焼き、国分寺へ供給したものと推測できた」(森貞次郎古稀記念『古文化論集』下 古稀記念論文刊行会、一九八二)と述べている。豊前国分寺の造営には、このように各郡の郡司たちやそのほかの豪族たちの全面的な協力があって完成していったことがわかるが、一方ではそのような豪族たちが一族の氏寺として白鳳時代(七世紀後半―八世紀初頭)から初期寺院を建立してきた経験と技術力がここでも役立てられたと思われる。