ビューア該当ページ

国分寺の建立と郷土

497 ~ 498 / 1391ページ
国分寺の建立は当時の先端技術の粋を結集し駆使して造営された寺院ではあったが、しかし鎮護国家の護国経の唱読を中心とする道場であり、しかもそれまでは国が僧尼と民衆との接触や布教を禁じてきた経緯もあって、寺院そのものは、この地方でも民衆の日常生活とはほとんど無関係な存在であったと考えられる。しかし竪穴式住居に住み農耕儀礼や祖霊崇拝など固有の信仰を保ち続けてきた人々にとっては、瓦葺きの建造物群からなる仏教寺院は新鮮なものとして目に映り、いやがうえにも仏教に対する関心を高めたことであろう。
 白鳳時代末期(八世紀初頭)に上坂廃寺・木山廃寺・椿市廃寺など地域の豪族の私寺は建立されてはいたが、この時期にこの地方に国立寺院が建立された意義や地域全体に与えた文化的刺激は大きく、政治の中心であった豊前国府と合わせて、この地方が豊前国の政治や文化の中心地としての地位を確立していったことは確かであろう。