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D区の調査

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D区は、指定地北半のほぼ中央部に設定した最大の調査区である。この地区は現在の国分寺の中軸線上にあたり、創建時の七堂伽藍のうちの講堂以外にも僧坊や食堂などの主要建物が建立されていた可能性が非常に高い場所である。
 当調査区は、指定地北部の平坦面から、その北側の低い段落ちにまたがる、東西幅約二三メートル・南北長さ三六メートルの長方形をなす調査区である。また、調査の進展に伴い、南東部と南西部に小調査区を追加した。確認された遺構の性格・分布状況は、北部・中央部・南部でそれぞれ異なっている。北部は東西方向に走る三条の溝と玉石を敷き詰めた遺構が主体をなし、中央部には大形土壙と整地層を切る不整形ピットなどからなり、南部は地山削りだしの土壇と多数の柱穴などからなる。検出された主な遺構は、基壇一基・掘立柱建物跡一基・柱穴列五条・溝(玉石遺構を含む)一〇条・土壙一二基などである(第40図参照)。ただし、このなかには弥生時代のものかと考えられる土壙三基が含まれている。

第40図 豊前国分僧寺跡D区全体図(縮尺1/300)

 SB3001は、調査区南部に位置する基壇跡である(第41図参照)。遺構は地山を削りだして土壇を造るもので、確認された部分では高さ〇・一~〇・三メートルである。建築当初はより高い段差を持っていたと考えられ、周辺の出土遺物から、基壇の外縁部には塼(せん)が積まれ、基壇上面には礎石が据えられ、屋根には瓦が葺(ふ)かれていたと推定される。基壇の周辺部、特に東面と西面の段下からは小礫とともにこれらの遺物が多量に出土している。基壇の細部をみてみると、まず北面中央部に接して幅三・五メートル・長さ二・三メートルで、基壇外方に向かって低くなる傾斜面がある。この遺構は恐らく建物外から基壇上にのぼる階段の名残と推定される。次に、この傾斜面の東西両側には基壇に接して二基の土壙(SK3002・SK3003)が検出された。二基ともに平面形が東西方向に長い隅丸方形をなし、規模はSK3002が長さ四・五メートル、幅一・九メートルで、SK3003は長さ四・一メートル、幅一・八メートルである。非常に浅い土壙であるが、内部からは小礫にまじって瓦・土師器などが出土している。更に、基壇に付属する遺構としては、基壇上面北西隅から段下に落ち、西方向に調査区外へと延びる溝(SD3006)がある。この溝は基壇上面では長さ一・四メートル、段下で長さ一・〇メートルを確認し、幅〇・九メートルで、内部には径五~一五センチメートルの円礫が多量に詰まっていた。遺構の機能は、基壇上の建物に伴う排水溝と考えられる。SB3001は本調査区内で北辺と西辺の一部が確認され、南東部の小調査区では南北方向に延びる同様の地山の削りだし(東辺)が検出されたが、南西部の小調査区では関連する遣構の南辺は確認されなかった。これにより、SB3001は東西の長さが約二七メートルを計ることが判明したが、南北の幅については明確にできなかった。遺構の主軸は、現在の国分寺の主軸に比べ、西側に約三度振っている。なお、国分寺の寺域内での位置や規模・構造の面から考えて、SB3001は講堂の基壇跡と推定される。また、建立の時期には、関連遺構や周辺部からの出土遺物からみて、奈良時代の創建時の可能性が高い。

第41図 豊前国分僧寺D区講堂基壇跡(SB3001)

 SK3001は、調査区中央部のやや北側に位置する大形土壙である(第42図参照)。遺構の平面形は、東西に長い隅丸長方形をなし、規模は東西長さ九・一メートル、南北幅三・八メートル、深さ一・〇メートルを計る。遺構内部の南側と西側の縁辺部には多量の礫が散乱していた。礫の大きさの面から、二〇~四〇センチメートルのものと六〇~一一〇センチメートルのものとに大別される。大形の礫は一〇点前後あるが、花崗岩が多く、意識的に平坦面を作り出しているものもあり、建物の礎石として使用されていたものであろう。また、これらの礫とともに多量の瓦と数点の塼が出土している。塼は完形品がないが、一辺が三〇センチメートル程度の正方形をなすと推定され、厚さは七センチメートル前後のものである。表面に文様はなく、瓦にみられるような布目状の圧痕が残されている。この遺構の用途は、出土した遺物の性質からみて、国分寺の主要建物の建築材料を廃棄するためのものと考えられる。また、遺構内部に散乱する大形の礫は南側から転がして落としたような状況であることから、廃棄する対象となった建物は、南側約一一メートルの近距離にある講堂であろう。なお、SK3001の時期は、中世の十四・十五世紀ごろであろう。

第42図 豊前国分僧寺D区大形土壙(SK3001)

 SD3002は、調査区北端に走る東西の大形溝である。指定地内の位置や方位からみて、西方でB区のSD2101につながる東西溝で、A区の南北溝であるSD2001と一連のものと考えられる。
 SD3001は、調査区の北側で、SD3002の南側五・五メートルを東西に走る溝である。遺構は幅一・四~三・九メートル、深さ一・〇メートルを計る。また、この溝の上部には玉石を敷き詰めた遺構であるSD3004が載っており、出土遺構からみて時期的には中世のものである。遺構の方位と時期の面から推定して、A区の南北溝であるSD2004に連なる北辺の溝と考えられる。
 SD3004は、調査区北側を東西に走る幅三・六~六・六メートルの玉石を敷いた遺構である。玉石の大きさは径一〇センチメートル以下のものがほとんどで、遺構の性格は溝であるのか道であるのか不明である。時期は江戸時代である。なお、中央部から北方に延びる遺構からも同様の玉石が出土しており、一連の遺構と考えられる。
 D区で確認された主な遺構を整理すると、まずSB3001は奈良時代の七堂伽藍を構成していた講堂の基壇跡である。中世の遺構としてはSK3001が建築材料を廃棄した大形土壙であり、SD3001が施設の北辺を区画する東西大溝である。江戸時代の遺構としては、SD3002がSD3001と同様の性格を持つ東西大溝、SD3004は国分寺寺域内を東西に走る道または溝である。