ビューア該当ページ

発掘調査のまとめ

513 ~ 515 / 1391ページ
以上のように、豊前国分僧寺の発掘調査は四か年にわたり、史跡指定地内の北部を中心として約二四〇〇平方メートルの調査を行った。その結果、確認された主な遺構は掘立柱を中心とする建物跡一三棟・柱穴列一〇条・井戸一基・土壙約三〇基・溝約三〇条などである。調査全体を通して判明した事実関係や推論・問題点などをまとめると以下のようになる。
 ①各種遺構の残存状況をみると指定地北縁部・西縁部にはそれぞれ東西方向・南北方向の大形溝が走るが、その外側では概して柱穴などの遺構は少ない傾向がある。また、その内側についても後世の削平により、奈良時代の創建時から平安時代にかけての遺構は非常に少ない。ただし、中世以降の掘立柱建物跡や柵列はこれらの溝で区画された内側に広く分布していることが判明した。
 ②D区SB3001は東西の長さ約二七メートルを計る地山削りだしの基壇であるが、周辺の段下および北側の大形土壙の出土遺物から、創建時の奈良時代の建物跡と考えられる。また、塼積み基壇の瓦葺き建物という内容と、寺域内での位置から推定して、講堂跡とすることが妥当である。この建物跡の構造として北面中央部に階段が設けられ、北西隅には排水溝も設置されていることが判明した。
 ③創建時の中軸線について考える場合、唯一参考資料となるのが講堂基壇跡(SB3001)である。この建物が当時の中軸線上に乗っていたとするとその方位はN-約3°-Wとなる。これは現在の国分僧寺の方位に比べても約三度西に傾くことになり、講堂基壇跡北辺では四・〇メートル西にずれることになる。創建時の寺域については、現在の地形から想像するしかない。指定地周辺の現地形は、現在の中軸線から東方約七〇メートル、西方約一二〇メートルから外側は二、三メートルの段落ちがあることから最大限でも一町半程度と想像される。また、現在の山門の南数メートルの地点から花崗岩の礎石が一基出土しており、この位置を創建時の南門と推定すると、指定地北辺段落ちまでの南北の長さは約一八〇メートルとなる。この敷地内に建立された七堂伽藍のうち、D区の調査で講堂の位置が明確になった。金堂は現在の本堂の位置と重複するかやや南にあったと推定されている。中門は現鐘楼門より南側、南門は現山門より数メートル南側の位置と考えられる。塔は従来、現三重塔の位置に創建時も建っていたと考えられていたが、周辺のC区の調査では創建時の遺構・遺物がまったくなかったことから、参道を挟んで逆の東側の位置について考慮に入れる必要がある。僧坊・食堂についてはまったく不明であるが、講堂の北部から西部にかけての地域に十分な空白地がある。
 ④中世の寺域については、A区・D区・F区で検出された南北方向・東西方向の溝(SD2004・SD3102・SD4001)を一連の区画施設として考えることができる。この場合、寺域の東西幅は溝の芯々で計測して約八四メートルとなる。その方位はN-約5°-Wである。
 ⑤江戸時代の主な遺構としては、A区・B区・D区・E区などで確認された一連の大形溝がある。この溝は北辺と東辺の一部を検出したが、それ以外の部分は指定地外に延びる。現在の国分僧寺を構成する主要な建物のうち本堂が宝永七年(一七一〇)、鐘楼門が貞享元年(一六八四)に建立されたといい、十七世紀後半代に急速に再建されていったことが分かる。これらの建物のうち本堂と北辺を区画する溝との間には約六〇メートルの敷地があり、記録に残るこれらの建物以外にも、指定地北部にはなんらかの施設が存在していた可能性もある。その名残がD区北部に広がる玉石遺構(SD3004)なのかもしれない。
 ⑥出土遺物のうち瓦については、表採資料も含めてさまざまな形式のものが出土している。軒丸瓦では、百済系単弁八弁・高句麗系・老司系単弁一九弁・鴻臚館系複弁七弁のほかにも単弁一三弁・単弁一六弁・単弁三七弁・複弁八弁などがある。軒平瓦では、重弧文・新羅系・老司系・法隆寺系などがあり、鬼瓦は大宰府系である。これらの瓦のうち、老司系と鴻臚館系の軒丸瓦及び老司系の軒平瓦は豊前国府跡出土のものと同笵である。法隆寺系軒平瓦は築城町船迫堂帰り瓦窯跡で製作されている。塼については先述したが、主要堂宇が塼(せん)積み基壇であったことを証明する資料となった。日常雑器では、奈良・平安時代のものが非常に少ないが、中世では青磁・白磁をはじめ土師器や瓦質(がしつ)の火舎(かじゃ)が出土しており、寺院として盛んに活動していたことを裏付けている。