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尼寺の歴史的変遷

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尼寺は僧寺とともに、天平十三年(七四一)の国分寺建立の詔を受けて造営された豊前国の官寺であり、建立の時期は、僧寺が七五〇年代と考えられており、尼寺もほぼ同じ奈良時代中ごろと推定される。尼寺は法華滅罪之寺と称され、寺院を構成する主要伽藍は、塔がないことを除き僧寺とほぼ同じであることが知られている。全国的にみて国分寺は、建立ののち平安時代の後半には衰退し、活動を停止するものが増えるが、豊前国分寺の場合中世の鎌倉・室町時代を通して法燈を絶やすことなく盛んに活動していたようである。天正年間(一五七三―九二)の一五七〇年代に、戦国大名の大友氏と大内氏の争乱の際に、僧寺が攻撃目標となり、焼き討ちされたという伝承も国分寺が僧兵などの勢力を蓄えていたことを傍証していると考えられる。
 建立後の尼寺の活動や存否については明らかではないが、中世までは僧寺と同じような経過をたどったものと想像される。僧寺のほうは焼失後江戸時代に入って慶安三年(一六五〇)に再び堂が造られ、寛文六年(一六六六)以降は小笠原藩の手によって再興された。尼寺は江戸時代には僧寺の子院となっており、『京都郡誌』によるとその堂宇は「文政十一(一八二八)戊子年為暴風顚倒(てんとう)以来解体」とあり、十九世紀前半に倒壊し、その後無住となったことがうかがわれる。更に同書には「仲津郡国分村国分寺本堂より三町許東方に、尼寺趾ありて、今僅(わずか)に二間四方地蔵堂のみあり、堂の四方、往々に昔の礎残れり、境内凡て二町四方許なるが、今に至て、其内を耕す事を禁(い)むれば、荒原となれり」とあり、明治末から大正初期には二間四方の地蔵堂が建ち、周辺に礎石が残っていたことがうかがわれる。
 現在尼寺推定地付近は、尾根線上を南北に町道が走り、点々と宅地になりつつある。このため、豊津町は尼ケ堂と呼ばれる寺域内の一角を公有化し、保存を図っている。先の町道の工事の際に発見された礎石(第45図)が、この公有地に置かれているが、他の礎石は若宮八幡神社の鳥居の礎石などに移されて残っている。

第45図 豊前国分尼寺跡礎石実測図