建立後の尼寺の活動や存否については明らかではないが、中世までは僧寺と同じような経過をたどったものと想像される。僧寺のほうは焼失後江戸時代に入って慶安三年(一六五〇)に再び堂が造られ、寛文六年(一六六六)以降は小笠原藩の手によって再興された。尼寺は江戸時代には僧寺の子院となっており、『京都郡誌』によるとその堂宇は「文政十一(一八二八)戊子年為暴風顚倒(てんとう)以来解体」とあり、十九世紀前半に倒壊し、その後無住となったことがうかがわれる。更に同書には「仲津郡国分村国分寺本堂より三町許東方に、尼寺趾ありて、今僅(わずか)に二間四方地蔵堂のみあり、堂の四方、往々に昔の礎残れり、境内凡て二町四方許なるが、今に至て、其内を耕す事を禁(い)むれば、荒原となれり」とあり、明治末から大正初期には二間四方の地蔵堂が建ち、周辺に礎石が残っていたことがうかがわれる。
現在尼寺推定地付近は、尾根線上を南北に町道が走り、点々と宅地になりつつある。このため、豊津町は尼ケ堂と呼ばれる寺域内の一角を公有化し、保存を図っている。先の町道の工事の際に発見された礎石(第45図)が、この公有地に置かれているが、他の礎石は若宮八幡神社の鳥居の礎石などに移されて残っている。
第45図 豊前国分尼寺跡礎石実測図