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遺跡の性格

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先述したとおり、豊前国分僧寺跡の半径約五〇〇メートルの範囲には、尼寺跡や後述する徳政瓦窯跡・北原遺跡やこの正道遺跡など、奈良時代から平安時代にかけて国分寺に関連していたと考えられる遺跡が集中する。正道遺跡の掘立柱建物跡は柱穴内からの遺物が少なく時期の判定は困難であるが、埋土の状況からみてSB001がやや古い様相を呈するが、ほかは平安時代を中心に建設されたものと推定される。また、検出された土壙(どこう)群の性格は不明であるが、SK008から出土した塼仏(せんぶつ)は貴重な資料である。一般的に塼仏は仏教関係施設の室内壁面の装飾に用いられるものであるが、当遺跡では一点のみの出土であり、また同形式の宇佐市虚空蔵寺のものが白鳳期に属していたのに対して、当塼仏が出土したSK008は共伴遺物からみて十二世紀に属する。このようなことから、当塼仏は他の仏教施設に使用されていたものを転用し、図案の如来像を重視して持仏などとして使用したものと推測される。
 このように考えると、わずか一点の塼仏の出土ではあるが、正道遺跡には国分寺建立から約四〇〇年経過した平安時代末においても、なお仏教にかかわる人間の生活の跡が残されていたと想像することができる。