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遺跡の性格

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豊前国分寺は、奈良時代後半の創建以来、天正年間の大友氏の焼き討ちまで、八百余年にわたり法燈を絶やさなかった。北原遺跡の掘立柱建物跡は、まさに創建直後の時期にあたっている。また、方形溝状遺構は鎌倉時代後半期、溝一は室町時代前半期の施設であり、遺構内からは白磁の合子や龍泉窯系・同安窯系の青磁など輸入陶磁器が出土している。このような特殊な遺物は、官衙または寺院との関連が考えられるが、鎌倉時代後半期になると大字国作・惣社の豊前国府域内には、生活の跡がほとんどなくなる。このため、これらの施設を使用していたのは、直接的に豊前国分寺に関係していた人々と想像することができる。
 更に、当遺跡と豊前国分僧寺が直線距離で約四〇〇メートルを隔てていることは、中世においてもなお国分寺が、かなり広い範囲の直接的な生活領域を有していたことを示している。