当窯跡は現状の地形からみて、窯本体の下位から焚口部分が道路によって破壊されているものと推定されるが、窯跡の上位や全面の灰原は道路を挟んで両側に遺存していると考えられる。遺跡の概要をさぐる調査は、昭和十二年に森貞次郎氏によって行われており、その際次のように報告されている。「若宮八幡の社殿背後の西向斜面を、南北に横切る幅員一間の道路がある。瓦窯は胴部を此の道路によって横断されている。窯は登り窯で、道の西側の排水溝付近が焚口と推定される。窯壁は脆い壁土で赤褐色に焼き締まっている。内部は褐黒色の土が充満し、多数の布目のある宇(う)瓦の小破片が少量の木炭屑と共に道路土の断面及び東側掘崩崖の断面に露出している。」
この後、道路の拡張工事の際に再び窯跡が削られ、その際に故原口信行氏らによって調査され、実測図が残されている(第56図)。
第56図 徳政瓦窯跡断面図(『豊津町誌』より)