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遺跡の性格

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当窯跡から出土したとされる瓦のうち、型式が判明している軒瓦には細弁三七弁軒丸瓦がある(第57図)。この軒瓦と同笵と考えられるものが、かつて豊前国分寺に二点所蔵されていたといわれている。この瓦は文様の型式からみて十世紀以降の平安時代に下る時期のものである。このことから、豊前国分寺が奈良時代中期に建立されたのち、平安時代に入って増改築や修理を行った際に当窯跡が作られ、その製品が供給されたものと推定される。

第57図 徳政瓦窯跡出土軒丸瓦実測図
(九州歴史資料館編『九州古瓦図録』より)

 なお、奈良時代の国分寺の瓦を焼いた窯跡は、築城町の船迫堂帰り瓦窯跡がよく知られている。
 当地域には七世紀末の白鳳期に上坂廃寺が建立され、奈良時代に入ると豊前国府も建設されており、両遺跡からは発掘調査によって各時代の大量の瓦が出土している。このため、瓦を焼いた窯跡はこれら以外にも豊津町内を中心とした周辺地域に多数分布しているものと推測され、今後丘陵部の斜面などでは関連遺構の存在に注意が必要であろう。