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豊前国内の荘園

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豊前国内で荘園がどのように形づくられ、経営されていったかを具体的に示す資料はないが十二世紀末の建久年間(一一九〇―九九)に鎌倉幕府が諸国の国衙の役人に作成させた「建久図田帳(けんきゅうずでんちょう)」によって豊前国では当時どのように土地が所有されていたのかを知ることができる。それをまとめたのが第1表である。
 
第1表 豊前国の土地領有区分
総面積神社領仏寺領権門領府領公領(うち 没官領)
14,300町5,1413,8093,6642801,406(936)
100パーセント35・926・725・61・99・9(6・5)

※没官領は平家方として戦った大宰府官たちの所領で、のちに大部分が鎌倉幕府の直轄領(関東御領)となったり、御家人(地頭)が配置された。
 
 これをみると、神社領・仏寺領・権門領が圧倒的に多く、豊前国総面積の約八八パーセントを占めており、府領・公領は約一二パーセントという状態であった。そのうえ公領の中には没官領が含まれているので、実際には府領・公領は五・三パーセント余りとなるはずである。豊前国の場合、建久図田帳では規矩(きく)(企救)郡・田河(田川)郡・京都郡などの残簡であるが、神社・仏寺領はそのほとんどが宇佐宮とその神宮寺である弥勒寺の領有であり、このような荘園は、十一世紀初めから十二世紀にかけての平安末期にかけて成立したと考えられている。次いで県下全体では、平安末期の荘園数は一七〇~一八〇にのぼるといわれ、領主別では荘園所有数の多い順に宇佐宮、弥勒寺、安楽寺、観世音寺、筥崎宮、香椎宮である。宇佐宮・弥勒寺についてはあとで述べるとして安楽寺は菅原道真の廟所であるが九州各地にわたっての荘園を所有しており、豊前国においては次にみるような荘園があった。
所在地荘名年代沿革出典
豊前 田河郡副田荘永承2年金堂料七十町、観応三年地頭職太宰府天満宮文書
嶋津上総入道跡、凶徒押領
    京都郡堅島荘観応3年以前遍智院真言堂長日護摩供料  同
     同窪荘   同地頭職、本主余類押領  同
    上毛郡山田荘   同地頭職二十余町、岩松義継寄進  同
    (郡未詳)夏焼荘   同不知行  同

 貴族から庶民に至るまでの幅広い天神信仰の広まりにつれての寄進であろう。観世音寺は天智天皇が筑前で崩御した母の斉明天皇の追善のために発願して天平十八年(七四六)に完成した寺院であり、東大寺・薬師寺(下野)と並ぶ天下の三戒壇の一つであり、九世紀初めには九州第一の大寺になったが、筑前・筑後・肥前など西九州に多くの荘園を所有していた。