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宇佐宮の荘園

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古代周防灘に面した豊前国南部では農業神であった宇佐神の信仰と新羅系の巫祝(ふしゅく)信仰が統合して八幡信仰の初期の形ができ上がったと考えられているが、宇佐の神官となった大神比義はこの八幡神に応神天皇を神格化して付与し朝廷に接近して和銅五年(七一二)には官社八幡宮を創立した。『八幡宇佐御宣記集』などによると養老四年(七二〇)日向・大隅の隼人の反乱を鎮定する際に朝廷は宇佐八幡宮に戦勝の祈願を行い、禰宜(ねぎ)辛嶋勝代豆米(からしますぐりよつめ)は神軍を率いて参戦し、大御神のあやしき貴き威力で平定したとされていて、八幡神がしだいに国家の守護神になっていく様子を伝えているが、その後広嗣の乱鎮定の祈願、聖武天皇の病気平癒(へいゆ)の祈願など国家の大事に際しての祈願や神託が行われ、封戸(ふこ)や位田などが給与されていった。九世紀以後には八幡神は朝廷によって崇敬されるだけでなく庶民の間にも農業神として広がりをみせた。このように朝廷から庶民に至るまで八幡信仰が広まりをみせる過程で宇佐八幡宮としての神領も形成され、後にそれがしだいに荘園化されていった。
 『八幡宇佐宮御神領大鏡』(到津文書)によると、まず奈良時代から宇佐宮に与えられた封戸(国家から支給された戸)の六四〇戸が荘園化したものがある。国司が封戸から徴税して宇佐宮に納める税物が滞納してその代わりに土地が与えられたもので、豊前・豊後・日向の一〇郷三庄(三国七郡)に及んでいた(第2表参照)。奈良時代貴族から寄進された位田・供田・油料庄などがあとになって公田とまぎれてきたために交換をした田地として再び与えられて荘園となったものがあり、豊前に六荘(新開(しんかい)・角田(すだ)・津隈(つのくま)・貫(ぬき)・到津(いとうづ)・勾金(まがりかね))、豊後二荘、筑前二荘、筑後四荘、肥前四荘の一八か所で本御荘(ほんみしょう)と呼ばれ、総田数は一一九〇町五反二四代に及ぶが、平安時代後期の十一世紀初めから終わりにかけての成立が多い(第2表の1・2参照)。そのほか常見名田(つねみみょうでん)があり、大部分は規模の小さな開墾地でいくらかの郡司や有力名主の寄進地も含まれていて、大隅国、薩摩国を除いた九州七国に散在していた。規模も小さく、大部分は別符(べふ)などと呼ばれ、租だけを国に納める半不輸の地であったが、後に不輸権を獲得していったといわれる。豊前国三〇か所をはじめとして七国に九〇か所が存在した。
第2表の(1)「十郷三箇庄」田数
郷名田数起請田数佃田数用作田数
十郷宇佐郡(210)町 反 代町 反 代町 反 代
封戸郷155・5・1010・2・011・8・0
向野郷202・9・06・4・3011・0・0
高家郷160・0・03・5・09・7・0
辛島郷240・0・04・2・022・1・0
葛原郷(辛島郷内)40・1・30     5・07・5・0
国崎郡(65)町 反 代
来縄郷(350・0・0)68・0・04・6・011・9・0
安岐郷(350・0・0)62・7・302・4・012・0・0
武蔵郷(350・0・0)32・2・302・0・013・7・0
下毛郡(100)大家郷164・0・06・0・08・2・0
野仲郷148・0・04・4・09・6・0
深水庄(野仲郷内)25・7・01・6・0
上毛郡(100)272・0・013・5・3020・3・0
三庄豊後御封田
緒方庄240・0・0120・0・018・9・0
日向調殿
宮崎庄33・9・0     7・2
臼杵庄19・9・103・0・30
(十郷の郡名の次のカッコ内数字は封戸)

 
第2表の(2)「本御荘十八(七)箇所」田数
 
庄名田数用作備考
豊前町 反 代町 反 代
新開庄79・0・01・8・0長元四年立券時田数
角田庄記載なし4・8・0 八十五町五反二二八歩
津隈庄70・0・01・9・0
貫庄記載なし2・5・0
到津庄130・0・01・0・0
勾金庄130・0・01・8・0
豊後田染庄記載なし4・1・0佃一町あり
石垣庄150・0・06・4・10
筑前綱別庄22・3・04・8・0
椿庄43・0・06・0・0
筑後小家庄(15・50) 2・9・0
守部庄18・7・301・0・0
 本庄 20町
小河庄{松延 30町1・6・0用作は全部本庄にあり
 三深 8町
肥前米多庄34・0・0 3・0
赤自庄24・2・30 5・0入田四〇町あり
大楊庄83・1・0記載なし 「巳公田」と注記
大町庄70・8・03・5・0
(工藤敬一「九州庄園の研究」1969年より)