『八幡宇佐宮御神領大鏡』(到津文書)によると、まず奈良時代から宇佐宮に与えられた封戸(国家から支給された戸)の六四〇戸が荘園化したものがある。国司が封戸から徴税して宇佐宮に納める税物が滞納してその代わりに土地が与えられたもので、豊前・豊後・日向の一〇郷三庄(三国七郡)に及んでいた(第2表参照)。奈良時代貴族から寄進された位田・供田・油料庄などがあとになって公田とまぎれてきたために交換をした田地として再び与えられて荘園となったものがあり、豊前に六荘(新開(しんかい)・角田(すだ)・津隈(つのくま)・貫(ぬき)・到津(いとうづ)・勾金(まがりかね))、豊後二荘、筑前二荘、筑後四荘、肥前四荘の一八か所で本御荘(ほんみしょう)と呼ばれ、総田数は一一九〇町五反二四代に及ぶが、平安時代後期の十一世紀初めから終わりにかけての成立が多い(第2表の1・2参照)。そのほか常見名田(つねみみょうでん)があり、大部分は規模の小さな開墾地でいくらかの郡司や有力名主の寄進地も含まれていて、大隅国、薩摩国を除いた九州七国に散在していた。規模も小さく、大部分は別符(べふ)などと呼ばれ、租だけを国に納める半不輸の地であったが、後に不輸権を獲得していったといわれる。豊前国三〇か所をはじめとして七国に九〇か所が存在した。
第2表の(1)「十郷三箇庄」田数
郷名 | 田数 | 起請田数 | 佃田数 | 用作田数 | ||
十郷 | 宇佐郡(210) | 町 反 代 | 町 反 代 | 町 反 代 | ||
封戸郷 | 155・5・10 | 10・2・0 | 11・8・0 | |||
向野郷 | 202・9・0 | 6・4・30 | 11・0・0 | |||
高家郷 | 160・0・0 | 3・5・0 | 9・7・0 | |||
辛島郷 | 240・0・0 | 4・2・0 | 22・1・0 | |||
葛原郷(辛島郷内) | 40・1・30 | 5・0 | 7・5・0 | |||
国崎郡(65) | 町 反 代 | |||||
来縄郷 | (350・0・0) | 68・0・0 | 4・6・0 | 11・9・0 | ||
安岐郷 | (350・0・0) | 62・7・30 | 2・4・0 | 12・0・0 | ||
武蔵郷 | (350・0・0) | 32・2・30 | 2・0・0 | 13・7・0 | ||
下毛郡(100) | 大家郷 | 164・0・0 | 6・0・0 | 8・2・0 | ||
野仲郷 | 148・0・0 | 4・4・0 | 9・6・0 | |||
深水庄(野仲郷内) | 25・7・0 | 1・6・0 | ||||
上毛郡(100) | 272・0・0 | 13・5・30 | 20・3・0 | |||
三庄 | 豊後 | 御封田 | ||||
緒方庄 | 240・0・0 | 120・0・0 | 18・9・0 | |||
日向 | 調殿 | |||||
宮崎庄 | 33・9・0 | 7・2 | ||||
同 | ||||||
臼杵庄 | 19・9・10 | 3・0・30 | ||||
(十郷の郡名の次のカッコ内数字は封戸) |
第2表の(2)「本御荘十八(七)箇所」田数
庄名 | 田数 | 用作 | 備考 | |
豊前 | 町 反 代 | 町 反 代 | ||
新開庄 | 79・0・0 | 1・8・0 | 長元四年立券時田数 | |
角田庄 | 記載なし | 4・8・0 | 八十五町五反二二八歩 | |
津隈庄 | 70・0・0 | 1・9・0 | ||
貫庄 | 記載なし | 2・5・0 | ||
到津庄 | 130・0・0 | 1・0・0 | ||
勾金庄 | 130・0・0 | 1・8・0 | ||
豊後 | 田染庄 | 記載なし | 4・1・0 | 佃一町あり |
石垣庄 | 150・0・0 | 6・4・10 | ||
筑前 | 綱別庄 | 22・3・0 | 4・8・0 | |
椿庄 | 43・0・0 | 6・0・0 | ||
筑後 | 小家庄 | (15・50) | 2・9・0 | |
守部庄 | 18・7・30 | 1・0・0 | ||
本庄 20町 | ||||
小河庄 | {松延 30町 | 1・6・0 | 用作は全部本庄にあり | |
三深 8町 | ||||
肥前 | 米多庄 | 34・0・0 | 3・0 | |
赤自庄 | 24・2・30 | 5・0 | 入田四〇町あり | |
大楊庄 | 83・1・0 | 記載なし | 「巳公田」と注記 | |
大町庄 | 70・8・0 | 3・5・0 | ||
(工藤敬一「九州庄園の研究」1969年より) |