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豪族の兵士の活躍

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北部九州でも平安時代には外敵の侵入や内乱などに際して、在地の豪族が保持していたと思われる武士の活躍がみられた。寛平(かんぴょう)六年(八九四)に新羅の海賊が対馬に来冦(こう)した際には島守(しまのかみ)文屋善友(ふんやのよしとも)や郡司などが防衛軍を組織してそれを撃退しているが、当時既に律令国家としての軍制は形骸化(けいがいか)しており、在地の有力者の持っている戦力に依存せざるを得ない状況であったと考えられている。また前伊予掾(いよじょう)(国司三等官)であった藤原純友の反乱(九三九―四一)の際には直接的には北部九州の武士団の名は見いだし得ないが、追捕凶賊使小野好古(おののよしふる)などが徴発した諸国兵士よりむしろ地元の豪族の率いる兵士が主導的に活躍したと考えられる(資料3の(1)参照)。また寛仁三年(一〇一九)刀伊(とい)が来冦した際にも奮戦して撃退したのは前任の府官(藤原致孝(むねたか)・藤原助高(すけたか)・大蔵種材(たねき)・平為賢(ためかた))や前国司(源知(みなもとのとも))などの土着の豪族が中心になっており、当時既に大宰府とその管下ではこのような有力者が武力を保持して領主化し、治安のみならず府政の支えになっていたことが分かる(資料3の(2)参照)。保元三年(一一五八)、平清盛(きよもり)が大宰大弐となり、仁安元年(一一六六)にはその弟頼盛(よりもり)が大弐となって赴任したがこの年に寺社対策として当時九州での大荘園領主で神人という武力集団を抱えていた宇佐八幡大宮司宇佐公通(きんみち)を権少弐に任官した。また仁安三年(一一六八)には大蔵種直を大宰大監(だいげん)に任官するなど一族を含めて平氏の与党化を図った。大蔵氏は先の純友の乱の際に博多津で奮戦して純友軍を撃破した追捕使主典(さかん)の大蔵春実(おおくらはるざね)の子孫で、乱後は大宰府にとどまり土着して府官に任じられ、また原田・秋月・高橋・三池氏などの祖ともなり、一族は九州各地に勢力を拡大していった(資料4参照)。
 
資料3の(1)
追捕使
長官小野好古
次官源 経基
判官藤原慶幸
主典大蔵春実
(1)藤原純友の乱:山陽・南海両道追捕使

 
資料3の(2)
戦場官職など人名
怡土郡 住人多治久明
志摩郡 住人文室忠光
警固所○前少監大蔵種材(たねき)
  (同)藤原明範
○散位平爲賢(方)
○散位平爲忠
 前大監藤原助高
 傔仗大蔵光弘
  (同)藤原友近
 友近随兵紀重方
船越津大神守宮(おおみわのもりみや)
 擬検非違使(ぎけびいし)財部弘延(たからべひろのぶ)
海上 前少弐平致行(ともゆき)
 前大監藤原致孝
松浦郡 前肥前介源知
(2)刀伊の入寇:奮戦者・勲功者一覧

 

資料4 大蔵氏系図

 寿永二年(一一八三)木曽義仲に攻められた平氏が安徳天皇を奉じて西下し大宰府に着くが、一行には原田種直(たねなお)・菊池隆直、松浦党など北部九州の平家与党三〇〇〇騎が加わっていた。このように平氏が大宰府に下り最後に壇ノ浦を決戦の場としたのもこのような武士団や海賊に平氏を支える基盤を持っていたからであろう。