われわれの郷土の武士の発生期や発展期については記録は皆無であるが、平安末期の初頭に仲津郡西郷(さいごう)(現京都郡犀川(さいがわ)町)に住んでいた僧頼源の興味深い記録がある。彼は天台山二宮御油所の検校(天台二宮は蔵持山権現を指すか)であったが、嘉承二年(一一〇七)十月五日夜に強盗が押し入り家財を奪われたうえに家宅などに放火されている(『平安遺文』四所収、一六七九)。被害届に書かれた内容は次のとおりである。
・田畑坪付一通(豊前国印の押印されたもの)
・焼失建物 住宅三宇 (三間四面、五間三面、三間)
蔵 二宇 (五間、三間)
・盗難家財 武具 (腹巻三、打刀一)
馬具 (鞍一、泥障二)
衣類、反物
・その他 牛・馬の焼死
このように僧源信は田畑を所有し、かなりの邸宅・蔵を構え、そのうえ武装までしていたようであるが、このことから彼は僧でありながら在地の小領主的存在と考えられ、この時期地方の政治が乱れて領主間の私闘も激化していく中で、この地方でも各地域にはこのような中・小領主のいたことが推測される。
平安末期この地方と関係深い板井氏も大蔵氏一族であるが(資料4参照)、十二世紀初めには豊前国に土着して在庁官人(国府の役人)となり、板井種遠(たねとお)のころは城井兵衛尉種遠と称し、平氏の与党として豊前国府の田所(たどころ)・税所(さいしょ)両職を兼任し、豊前国有数の武士団を率いて勢力をふるった。『宇佐大鏡』によれば、仁平年中(一一五一―五四)には板井種人・種遠父子は宇佐宮領であった豊前国仲東郡城井浦(現京都郡犀川町)田地二八七町歩余を地頭といって押領し、更に同郷内幡野浦(現犀川町)にも濫妨(らんぼう)を行ったという。そしてその所領は田河郡柿原(かきばる)名(現大任(おおとう)町)・京都郡稗田(ひえだ)荘(現行橋市)・仲津郡元永(もとなが)村(現行橋市)・仲津郡城井郷(現犀川町)・築城郡伝法寺(でんぼうじ)荘(現築城町)など広範囲に及び、城井浦の神楽城を本拠地として活動した。また種遠の娘は宇佐大宮司公通の子公房に嫁しており、この二大勢力の結合によって当時の豊前国においての強力な平氏与党を形成していた。しかし文治元年(一一八五)、平氏滅亡後、板井氏の所領は鎌倉幕府によって没収され、そのほとんどは豊前国に入った宇都宮信房に与えられた。