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源平の争乱後の九州処理

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十一世紀末になると九州も、在庁官人や荘官となっていた在地領主たちが急速に武士化していった。こうした在地領主層と主従関係を結んだのは、近畿・中国・四国地方の受領となった平忠盛であった。この関係をいっそう積極的に展開し拡大したのは平清盛であった。彼は十二世紀中葉に自ら希望して大宰大弐に任ぜられ、更にその後、弟も同じく大弐となって大宰府に赴任した。このころには既に豊前・筑前・肥後・薩摩などが平家一門の知行国となっていた。こうして十二世紀末には、北九州は平家の確固たる基盤となっていた。
 周知のように、治承四年(一一八〇)に源頼朝が挙兵して以降、平氏は敗退を続けていった。そういった厳しい状況の中でも、平清盛の子、知盛の知行国であった豊前国の在庁官人や宇佐宮寺の神官・社僧の多くは、最後まで平家と行動を共にした。豊前の在庁官人を代表する板井種遠や、彼と姻戚関係を結んでいたという宇佐大宮司も、平家と強い繫(つな)がりをもち、大宰権少弐や豊前守に任ぜられていた。源平の争乱の最後の戦いである壇ノ浦の戦い(文治元年=一一八五)は、平氏にとってはその基盤である北九州を中心とする主従関係を結んだ武士たちを頼っての戦いでもあった。この戦いで平氏は源氏方を一時圧倒していたが、結局は最後に敗れてしまった。この戦いの後、平家方の武将はその広大な所領も没収され、安楽寺領や宇佐宮領も没収されるなどして、北九州の平家勢力は一掃されてしまった。そして新しく鎌倉から派遣された御家人たちの支配下に入っていくことになる。
 源頼朝の戦後処理方針は朝廷の行政権には干渉せず、平家一門やその支配下にあるものの所領の没収にとどめた。ところが、源範頼の要請に応えた豊後の緒方惟栄(これよし)・臼杵惟隆ら大神(おおが)一族らが豊前に侵入し、無人となっていた宇佐宮の舎殿を打ち破り、神宝以下を奪い去った。これは後に、朝廷が知るところとなり問題となって、緒方惟栄らの流罪と、汚穢(おわい)された宇佐宮舎殿の造替が決定された。また、源義経が平家の捕虜を連れて上洛したのち、九州の残務処理を命ぜられていた源範頼もまた、本所・領家からの非法行為の訴えが殺到した。そこで、源頼朝は範頼を召喚し、代わりに腹心で有力御家人である天野遠景を九州に派遣した。天野遠景は六年以上も大宰府にいて、九国の裁判を処理・執行した。やがて、彼についても、荘園勢力の本所・領家からの苦情が続き、後白河上皇の寵臣吉田経房の大宰権帥解任と時を同じくして九州を離れさせられた。