このあと建久六年(一一九五)、中原親能と武藤資頼が大宰府に下向してきた。中原親能は一年後には京都守護となって上洛したので、武藤資頼だけが大宰少弐として大宰府にとどまって、引き続いて九国の守護としての務めを果たした。九国の守護職は、やがて三か国ずつ分割されて、武藤少弐氏・大友氏・島津氏がその任に当たったという。少弐氏(武藤氏が大宰少弐を世襲して名乗る)は大宰府にいて、筑前・豊前・肥前の三か国の守護の任務を果たした。
平家に味方した板井種遠ら武士の所領は没収(平家没官領という)されて東国の武士に与えられたが、宇佐宮や弥勒寺の荘園や封郷には、源氏が尊崇する鎌倉鶴岡八幡宮の総本宮であるということで、地頭は置かれなかった。さらに神官・社僧らの私領も安堵された。特に内封四郷といわれた宇佐郡平野部の四郷は、守護不入の地とされ、宮検断が行われる特別扱いを受けるようになった。
板井種遠の跡である伝法寺庄三六〇町歩には、関東から宇都宮信房が地頭として入部し、仲東郷の城井浦に屋敷を構え、神楽山に拠(よ)った。信房の兄弟・子息は、豊前各地の所領に入部して、紀井一類と云われて、豊前最大の武士団に成長した。
その代表的な庶家として、弥勒寺領山田庄を本拠として上毛郡に勢力を扶植する山田氏、宇佐宮領下毛郡野仲郷郷司職を取得して下毛郡で成長する野仲氏、仲津郡仲西郷を本拠とする西郷氏があり、これらの庶家は更に多くの分家を創出して、戦国時代末期まで栄えた。そのほか、のちに門司氏を名乗る下総氏などが豊前に入ってきている。そして旧来からの九州の武士とは区別されるようになった。