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蒙古襲来と北条一門の九州入り

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少弐氏二代目の資能は、五〇年間も大宰府にいて、筑前・豊前・肥前の守護を務め、蒙古も襲来ごろは、鎮西西方奉行にもなって、九州では最も代表的な武士に成長していった。親父資頼下向以来、八〇年余も豊前の守護であったから、豊前各地に所領を獲得し、在地武士との繫がりを深めて、被官関係を結ぶ者も増加した。
 蒙古襲来に備えて、異国警固番が始まると、豊前の御家人は所領に応じて一定期間の番役と、石築地の造成や乱杭打ちなどを割り当てられた。
 豊前国の担当地は、青木横浜(福岡市西区今宿付近)であったことが、山田一族成恒氏の末裔(まつえい)と考えられる『末久文書』で明らかとなった。
 文永の役(文永十一年=一二七四)直前、鎮西に所領をもつ御家人に、幕府が鎮西への下向を命じたので、多くの御家人が東国より下ってきた。その中の一人、宇都宮尊覚は蒙古合戦で著しい勲功をあげた。霜月騒動(弘安八年=一二八五)で、肥後国守護職が北条氏に移ったのを機会に、その守護代となり、鎮西探題の前身である鎮西談議所が設置されると、その四頭奉行人の一人として訴訟の審議に加わるなど重要な役割を担った。次いで、筑後国の守護職に任ぜられた。その子息の頼房も筑後国守護職を務め、鎮西探題が設置される(永仁元年=一二九三)と、その重要機関である鎮西引付衆を三〇年ばかりも務めた。
 そのころ、元寇とその後の異国警固番役で、御家人の窮乏が進行したが、恩賞にもあずかることのなかった武士へ、一種の恩賞として、永仁の徳政令(永仁五年=一二九七)が適用された。また、夷敵調伏の祈禱に努めた宇佐宮に対しては、神領興行令(回復令)が出され、有徳人(うとくにん)である武士に売却したり、押領されて失った神領の取り戻しが許された。幕府は三人の奉行人を派遣してこの法令を強硬に執行して、有力武士の反発を買うところがあった。
 鎮西探題を初めとして北条一族が九州へ下向すると、北条氏の所領も漸次増加し、そこを本拠として土着する北条一門も現れた。肥後国の守護となった企救一郡の地頭規矩高政、豊前国の守護となった田川郡糸田庄を本貫とすると考えられる糸田貞義などは、所領内外の武士を被官化して地頭代官として扱い領国化を進め、在地有力武士と対立することにもなった。こうして、北条氏一門の独占的体制が九州のみならず、全国的に展開していったので、多くの有力御家人や在地領主との対立が次第に醸成され、反北条氏の気運がまんえんするようになったのである。