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南北朝期の内乱

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足利尊氏が後醍醐天皇の呼びかけに応じて六波羅探題を滅ぼすと、九州では宇都宮高房(冬綱・守綱)らは鎮西探題を攻めて、博多において北条英時を滅ぼした。こうして鎌倉幕府は、元弘三年(一三三三)に滅亡し、建武の新政が開始されたのである。ところが、幕府を滅ぼした多くの武士たちは天皇親政を望んでいたのではなかった。ただ執権北条氏の専制体制の打倒を考えてのことであった。その上、新政府は幕府打倒を果たした武士層を軽視し、恩賞も公平に行わなかったので、たちまち武士たちの不満を買い、初めからつまずいてしまった。こうした武士たちの動向を背景に、足利尊氏は新政に叛意を明らかにして、中先代の乱(建武二年=一三三五)を鎮圧したのち鎌倉で挙兵して上京したが、かえって新政府側の武将たちによって敗戦を余儀なくされ、西国方面に逃れた。
 この時、敗走した足利尊氏を九州へ迎え、室町幕府創設に卓越した功労を果たした少弐頼尚は、筑前のほかに豊前・肥後の守護職をも兼帯し、九州統治の中心的存在となった。ところが、中央で南北朝の対立(一三三六―九二)が生じ、また足利尊氏とその執事の高師直とが弟の足利直義と対立した、すなわち南北朝内乱期における幕府内部の対立である観応の擾乱(じょうらん)(観応元年=一三五〇―文和元年=一三五二)が起こり、幕府側・直義側・南朝側と三者のもつれた争乱状態が出現する。こうして、南北朝の内乱は地方も巻き込みながら複雑な状態が出現することになったのである。
 少弐氏は足利尊氏が博多に残した鎮西管領の一色道猷と利害が対立・敵対することとなった。特に、足利直冬が高師直に追われて九州へ逃れると、足利直義と強く結びついていた少弐頼尚は足利直冬擁護の側にまわり、九州北部に優勢な地位を確立した。しかし、足利直義が鎌倉で殺されると足利直冬は九州を離れて山陰地方に移って南朝に降伏して西国を転々とし幕府軍と対立した。
 一方、少弐頼尚は懐良(かねなが)親王・菊池武光方の南朝側に降り、足利尊氏に抵抗した。そのため、九州では南朝方が優勢となり、一色道猷・直氏父子は長門国へ逃走した。
 このころ、宇都宮守綱は豊前守護に任ぜられていたが、懐良親王に屈して、わずか一年ほどでやめさせられた。少弐頼尚は南朝方から豊前守護を安堵(あんど)されていたが、その守護代として西郷顕景が活躍している。少弐頼尚は豊前国の荘園を侵略したと訴えられて豊前守護職を罷免され、代わって国司として五条良遠が入国し、守護代菊池武尚が執務した。
 そこで少弐頼尚は足利義詮に帰順して、南朝側の懐良親王・菊池武光と筑後河畔大保原に戦って大敗し、西郷顕景ら多くの家来・一族が戦死して勢力を失い凋落(ちょうらく)した。