一色直氏が去ったあと、鎮西管領となった斯波氏経・渋川義行は懐良親王の優勢を覆す力がなく九州を去った。今や全国的に退潮の趨勢(すうせい)にあった南朝側の勢力の中で、ただ九州の南朝勢力のみが健在で優勢を保っていた。応安三年(一三七〇)、今川了俊が九州探題となると、前二者の失敗をかんがみ、安芸・備後の守護職を得て、両国の武士を動員し、防長の大内氏の協力を得て九州に入る計画を立て、少弐氏の筑前国、大友氏の豊後国、島津氏の薩摩国を除く六か国の守護職推薦権をも得て、子息義範を豊後に派遣し、弟仲秋を肥前に、弟氏兼を豊前の野仲氏の城へ送り、自らは中国勢を率いて筑前に入り、大宰府の懐良親王を包囲する作戦をとった。懐良親王は大宰府を退いた。
北部九州の支配の安定を図る絶好の機が肥後水島の戦いと判断した今川了俊は、その陣中において、少弐冬資を暗殺したため、かえって島津氏・大友氏の怒りを買い、計画は挫折した。
このあと、今川了俊は大内義弘の協力を得て態勢を立て直して、南朝側の勢力を九州からほぼ一掃すると突然、幕府から探題職を解任された。