今川了俊の九州経略に大いに貢献した大内義弘には、その報酬として了俊の弟氏兼に与えていた豊前守護職が与えられた。以来、一七〇余年も、大内氏は守護として豊前に君臨し、巧みに領国化した。この背景には、九州探題に今川了俊の後に任命された渋川氏が了俊ほどの政治力を持っていなかったので、幕府は大内氏に頼ったからである。
大内義弘は二五年ほど豊前の守護であったが、豊前の武士を被官化し、豊前国を領国化するには至らなかった。弟の盛見は義弘の留守を預かって幕府が支援する大内弘茂や介入道道通を破って幕府を譲歩させ、豊前国守護職をも回復した。
大内盛見は三〇年近くも在京して将軍に近侍したが、守護代杉重綱を通して、豊前の寺社本所領を保護し、荒廃した宇佐宮など国内の社寺を再興することに努めた。その事業に豊前の武士を動員し、協力させることによって、大内氏の膝下に組み入れながら、守護代―郡代―地下代官という支配組織を整備していった。このようにして豊前の国人を被官化し、支配組織の役人に起用した。また、寺社本所領の多くに半済(はんぜい)を実施して、守護請を行った。国人などの被官をその代官に任命し、武家領は直轄地としたり被官の知行地として、守護領国化を一層進めた。
しかし、大内盛見は、公方御料国となった筑前国の代官に任ぜられてからは、年貢や段銭の徴収を強行して、筑前国に所領をもつ少弐氏や大友氏の領地を侵害した。また、国人の所領をも侵害するところがあったので惣国一揆を惹起(じゃっき)し、また大友氏などにも挑まれたうえ、筑前国怡土(いと)郡深江の地に孤立して、あっけなく自刃した。