応仁の乱(応仁元年=一四六七)が起こると、管領細川勝元と対立していた大内政弘は、山名宗全に招かれて、中国・四国・九州の兵二万五〇〇〇余を率いて上洛し、西軍を優勢に導いた。劣勢となった細川勝元方は、大内教幸入道道頓に周防・長門の守護職を与えて、安芸・備後を攻めさせ、豊前の守護職を大友親繁に与え、筑前の守護職を少弐頼忠に与えて、大内政弘の足元を揺すぶった。細川勝元・山名宗全の両雄が相次いで死去したあと、公方義政と大内政弘の和睦(わぼく)が成立し、豊前・筑前の守護職が大内政弘に還補(げんぶ)されると、政弘は抵抗する大内道頓や少弐頼忠をしりぞけて豊前・筑前の地の支配を安定させた。
公方義材(よしき)と対立する管領細川政元は、周防へ逃亡した義材の上洛を阻止するため、大友親治・少弐政資に命じて豊前・筑前を侵略させた。
大友親治は、兄政親を下関の船木地蔵院で殺害されたことで、大内義興を恨んでいたから、豊前に侵入し大内氏と激しい攻防を繰り返した。中でも文亀元年(一五〇一)には、馬ケ岳を囲んで数万の軍勢が対峙する大合戦があった。その後、京都では、細川高国が実権を握り、公方義材を迎えたので、大友親治もこれを認め、大内義興は義材を奉じて上洛し、管領代として、約一〇年間、天下を牛耳った。そのころ、豊前の武士は、大内氏や守護代杉氏の被官となって山口に祗候し、その領国支配に服し、大内氏の氏寺である氷上山(ひかみさん)興隆寺の二月会大頭役を城井氏や山田氏がくじ引きによって勤め、仲津郡や築城郡などが脇頭役を命ぜられた。
大内義隆は、その初政において大友義鑑と対立し、豊前・筑前で衝突したが、公方義晴の斡旋(あっせん)で和睦してからは友好関係を一四年間ほど維持した。
大内義隆が家老陶隆房や杉重矩らと疎隔を生じ、反逆されて滅びると、陶隆房は大友宗麟の弟晴英(はるふさ)を大内家督として迎え、大内義長と称させた。四年後、陶隆房は毛利元就によって、厳島で滅ぼされ、その一年半後大内義長も、毛利元就と大友宗麟の密約によって、下関で滅び去った。