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大友宗麟と北部九州経略

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大友宗麟は、弟の大内義長が生存中は遠慮して豊前に侵入しなかった。その間、秋月文種・宗像氏貞らは、旧主少弐氏を再興させると称して一揆し、大内義長に抗し、田川郡から仲津郡馬ケ岳に進出した。大友宗麟は大内義長が自刃すると、直ちに豊前・筑前の両国に兵を進め、上毛郡の山田隆朝を防長へ亡命させ、秋月文種を自害させて豊前・筑前を掌中に収めた。しかし、防長を手中にした毛利元就が豊前・筑前の国人たちへの調略を行い、その結果起きた豊前・筑前の国人たちの反乱鎮圧に大友氏を忙殺させて、防長への野心を減殺させた。すなわち、仲津郡の西郷隆頼や企救郡の長野、筑前の麻生・宗像・筑紫氏らを挙兵させ、門司城を占拠して博多への通路を確保しようとした。
 ところが大友宗麟は門司城を攻略して城番を置いた。そこで毛利元就は仁保隆慰を渡海させて、これを奪回した。永禄二年(一五五九)のことである。
 この翌年が、今川義元が天下統一を目指し上洛を果たそうとして、織田信長から桶狭間で敗れた年なのである。全国各地は大きく動いていたのである。門司城を攻略された大友宗麟は、永禄四年(一五六一)万余の大軍を豊前に送り、門司城奪還を目指した。毛利元就は出雲白鹿の尼子義久攻撃に手いっぱいであったが、子息の隆元と小早川隆景に数万の軍勢を添えて門司城を救援させた。両者はガップリ組んでにらみ合いをつづけた。
 大友勢は蓑島辺を毛利水軍に押さえられ、補給路を遮断されたため、長期戦に耐えられなくなって、貫山を越えて日田へ退却した。田原親宏は、馬ケ岳北麓から国分寺原を通って国東へ帰ろうとして、杉因幡守隆哉に案内された毛利水軍に追尾されて、多大な犠牲者を出して帰郷した。
 翌永禄五年(一五六二)、出雲尼子義久と連携して、大友宗麟は再び大軍を豊前に投入した。豊前の西半分は既に毛利氏の占領するところとなっていたから、大友勢は香春岳・松山城(苅田町)を包囲し、門司城下に攻め込んだが、小競り合いを繰り返すのみで長陣となった。対陣する両者の講和を将軍義輝が仲介して、永禄七年六月、毛利方が門司城と企救一郡を残して、豊前・筑前を大友氏に明け渡すという条件で決着した。