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毛利氏の北部九州侵入

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しかし、毛利元就は豊前・筑前の国人との連絡をやめず、大友宗麟の豊前・筑前支配は安定しなかった。すなわち、宝満山・岩屋城に拠る高橋鑑種、三岳城に拠る長野筑後守、立花山に拠る立花鑑載、高祖城に拠る原田親種らが次々と離反し、豊後勢の出張のやむことがなかった。
 永禄八年(一五六五)、長野筑後守が何者かに暗殺されてから、長野氏は大友氏に従うようになった。永禄九年、出雲月山城の尼子義久が、長年にわたる毛利元就の攻撃に屈して下城すると、毛利氏は豊前・筑前の国人の要望に応えて数万の大軍を渡海させる余裕を取り戻した。
 永禄十一年、西郷隆頼と杉隆哉が大坂山に挙兵して、三岳と豊後とを分断し、三岳を孤立させ、同時に松山城・香春岳・古処山・宝満山の連絡路を確保しようとしたが、これは直ちに攻め落とされた。
 立花鑑載が戸次道雪らに攻められて滅びたのを契機として、吉川元春・小早川隆景兄弟が数万の大軍を渡海させ、三岳の長野弘勝らを全滅させ、京都郡等覚寺城に拠る長野三河守助守を豊後へ走らせて、豊前の西半分を占領し、軍を筑前に進め、立花城を包囲した。