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大友氏と毛利氏の争い

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永禄十二年、大友宗麟は、豊後・肥後・筑後の兵数万を動員して、自ら筑後高良山に動座し、立花山救援に向かわせた。しかし、豊後勢は立花山に近寄ることができず、閏五月四日、芸州勢に立花山城を明け渡した。豊前・安芸両軍が多々良川の両岸で対峙したまま十月まで日を送っている間、毛利方は、肥前の龍造寺隆信を挙兵させたり、水軍を東豊前へ動かして足元を揺さぶり、肥後では菊池氏を再興させようと策動し、豊州方は、瀬戸内水軍の棟梁村上武吉を寝返らせ、備後の藤井浩玄一類を挙兵させ、伯耆の山中鹿之助・尼子勝久らと連携して、毛利氏の膝元を揺さぶり、大内輝弘に五百余の軍勢と豊後水軍をつけて周防に上陸させ、山口を占領させた。防長では、大内輝弘の挙兵に応えて、各地で国人や土民の一揆が蜂起した。
 十月十五日、毛利元就は立花城撤兵を指示し、山口の大内輝弘を攻めて、富海の茶臼山に自刃させた。芸州勢は、香春岳・松山城を捨て、門司城のみを残して九州から手を引いた。
 宝満山城に七年余も籠城して豊州勢を苦しめた高橋鑑種は孤立して和睦し、小倉城に移り、企救一郡を与えられた。
 大友宗麟は長野三河守助守を馬ケ岳城督として、京都・仲津両郡を治めさせ、城井鎮房に築城郡を治めさせた。長野助守は企救郡の旧領を回復しようとして高橋鑑種と対立した。
 永禄十三年(一五七〇)から天正六年(一五七八)までの八年間は、大友宗麟の豊前支配がもっとも安定した時期であった。