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大友氏と北部九州の国人たち

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天正六年十一月、日向高城に進攻した大友氏の豊州勢数万が、島津義久に迎撃されて大敗すると、肥前・筑後・筑前・豊前・肥後の国人は一斉に大友氏から離反し、秋月種実や龍造寺隆信の支配に従うようになった。
 天正七年正月杉七郎重良が長門から蓑島へ渡り、京都・仲津両郡を長野助守から奪取しようとしたが、高橋鑑種(入道宗仙)・長野助守に反撃されて、椎田で自刃した。この事件は、豊後の田原親宏(入道宗亀)が、娘婿秋月種実との関係を断つ証(あかし)として、大友宗麟に示した豊前奪回策であった。その一方で、秋月種実・高橋宗仙に圧迫された長野助守は大友氏から離反し、築城郡の城井鎮房や上毛郡の広津鎮頼、下毛郡の野仲鎮兼を調略し、圧力をかけていた。
 天正八年(一五八〇)正月、田原宗亀の養子親貫が、豊前境の鞍懸城に籠城して大友宗麟にそむいた。彼は長野種信の子で秋月種実の甥(おい)であるという。秋月種実は、高橋元種・長野助守・城井鎮房らを動かせて、田原親貫を支援するため、豊前東部へ侵入した。この時、宇佐宮社官衆も、門司城合戦のころから大友氏の社奉行奈多鑑基・鎮基父子と対立していたので、秋月氏にくみして反大友の旗幟(きし)を鮮明にした。田原親貫は、大友宗麟の大軍の攻撃によく耐えて、九か月に及ぶ抵抗を続けたが、ついに城を捨て、豊前へ逃れたものの、宇佐郡で殺害された。
 天正九年末、古代宗教勢力である彦山と宇佐宮が、大友氏と敵対する秋月種実方に加担したため、大兵に包囲され、殿舎を焼き打ちされた。
 天正十年には、下毛郡の加来・福島・成恒などの国人も、高橋元種に所領の安堵を請い、宇佐郡も、海岸部の国人が秋月氏の支配下に入って、豊前全域が秋月・高橋氏の分国となった。
 天正十一年、大友氏は肥後小国衆や玖珠・日田郡衆を下毛郡に送って豊前東部二郡を奪回したが、一時的なものに過ぎなかった。豊後勢が帰国すると、秋月方が再び進出した。