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豊臣秀吉の九州征伐

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天正十四年(一五八六)三月、大友宗麟は大坂へ上り、秀吉に謁見して、九州への出馬を請うた。五月、宗麟が帰国すると、島津義久が北上を開始し、万余の大兵をもって筑前に侵攻し、岩屋城を攻めて、七月二十七日、高橋鎮種(入道紹運)以下七〇〇余人を壊滅させ、宝満山をも降した。岩屋城の危急を聞いて、豊臣秀吉は、黒田官兵衛孝高を軍監として、毛利輝元・小早川隆景ら中国勢を急ぎ渡海させたが、岩屋城救援には間に合わなかった。しかし、立花統虎のこもる立花城は落城をまぬかれ、八月二十五日、島津軍は筑前国から撤退した。
 豊前では、八月黒田官兵衛が小倉城を降伏させると、多くの国人が出頭して恭順を誓い、長野三郎左衛門も馬ケ岳城を黒田孝高に明け渡した。また中国衆は障子岳城を攻略し、加来嘉兵衛ら一〇〇〇人ほどがこもる宇留津城(築城町)も力攻めして壊滅させ、年内には包囲していた香春岳城の高橋元種を降伏させた。こうして、岩石城のみを残して、豊前を豊臣秀吉の支配下に入れた。
 天正十五年(一五八七)三月、豊臣秀吉が小倉城に到着すると、翌日には馬ケ岳城に移り、軍を二手に分けて、自らは田川郡から秋月への道を進み、弟の羽柴秀長・黒田孝高・毛利輝元らは豊後から日向に進ませた。
 馬ケ岳から伊田原に進んだ秀吉は、五〇〇人ばかりがこもる岩石城を力攻めして壊滅するのを見物し、筑前大隈に宿陣したところで、秋月種実父子が出家姿で命乞いに出頭したのを赦(ゆる)し、秋月城に移って、諸国人の出頭あいさつを謁見し、ひとまず知行を安堵した。
 島津義久が屈服したあと、秀吉は九州の国割りを行い、秋月氏や高橋氏を日向国に移し、長野氏を肥後国に移した。城井鎮房は伊予国に移すことにしたが、城井氏はこれを受けなかったという。
 豊前の西部二郡(高橋氏旧領)は毛利勝信に与えられ、残る六郡は黒田孝高に与えられ、豊前の国人で、知行を安堵された時枝・広津・仲間・宮成氏は検地のうえをもって知行地を与えられ、黒田孝高の寄騎に編入された。黒田孝高は馬ケ岳と妙見岳の中間に一城を築くよう命ぜられ、山国川口に中津城を築き、検地を実施した。黒田氏の検地は、文禄期の太閤検地と比べると、それほど厳しいものではなかったが、多くの国人に牢人となるか百姓身分に落とされるかの選択を迫るものであったから、国内に多大な動揺を生み、肥後国と同様の国一揆が発生した。翌天正十六年(一五八八)、黒田・毛利氏は、吉川氏ら中国勢の応援を得て、城井鎮房・野仲鎮兼を中心とする一揆を辛うじて鎮圧し、城井一族を滅亡させた。そして、黒田孝高は朝鮮出兵にとりかかった。